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ブラッド・メルドーのライブ盤 [ジャズ関係]

 久しぶりにブラッド・メルドーのピアノもの、先日ふと聞きたくなり、中古で買い直してみた。
 振り返ってみると、1990年中盤~2000年前半あたりの数年間にかけ、彼のピアノトリオものをよく聞いていた時期があった。好みに完全合致したという感じではなかったが、どこか興味を刺激し、掻き立てるものがあり、90年代の「アート・オブ・ザ・トリオ」の4枚は全部聞いている。その後も新作が出ればタイムリーにチェックし、2006年には来日コンサート(ちなみにこの時の会場は東京オペラシティ コンサートホール)にも行っており、こうして記憶を遡ってみると、あまり強く意識はしてなかったが、それなりの付き合い時間はあった。
 
 メルドーのピアノにはちょっとわかりにくい部分もあるし、硬く、クールに感じるところもあるが、ジャズの枠にとらわれない音楽性は自分の性に合ってたのだろう。ビートルズのカバーも何度か取り上げ、ロック方面では特にレディオヘッドのカバー曲も多く、このあたりの解釈は面白いと感じていた。また2018年には「アフター・バッハ」とタイトルたアルバムを発表するなど、ボーダレスな感覚で取り上げる作品領域は広い。

 さて今回聞いたのは「アート・オブ・ザ・トリオ Vol.4」。これは「Back At The Vanguard」とサブタイトの示す通りライヴ盤であるが、これに先立つ「アート・オブ・ザ・トリオ Vol.2」ですでにヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ盤を出した後、立て続けに出たもの。全7曲のうちカバーやスタンダードもの4曲(「All the Things You Are」「Solar」「I'll Be Seeing You」、そしてレディオヘッドのExit Music (For a Film))、と自作曲は3曲。

 冒頭から長いソロでスタート。アドリブはとにかく早い。非ジャズ的なアプローチが随所に感じられるせいもあるのだろうが、ジャズという枠組には収まり切れない広がりもみせる。ライブなので全体的に曲は長めだが、最も長尺なのは自作の「Nice Pass」という曲。演奏時間は17分も続くが、ここでのピアノソロ部分は複数線を走らせ、とにかく速い。ジャズのアドリブという感じからも逸脱し、ピアノ即興的なフリーな展開もある。

 聞きながら曲目を眺めてると、「All the Things You Are」が収録されており、この曲といえば、キース・ジャレットが80年代に録音したスタンダーズVOL1がすぐ思い浮かんだ。他にあったかなと、在庫CDを調べていると、レニートリスターノとかもあったが、最近聞いたパット・メセニーが発表した「クエスチョン・アンド・アンサー」(1991年)というアルバムにも入っていた。このアルバムはパットの自作曲5曲とスタンダード等の曲4曲という構成だが、スタンダード系の曲をよくよく見てみると「All the Things You Are」と「Solar」の2曲が入っている。あれ、これはブラッド・メルドーのライブ盤と2曲が重なってる。単なる偶然なのか?、と思いきや、しかしそこに繋がりはあるのではないだろうか。

 この繋がり的な感じは、後に具体的なプロジェクトとして結実されている。メルドーは自分のトリオ以外にも他流試合は多く、いろいろな人と共作発表したり、サイドマンでも登場してるが、2005年にパット・メセニーとアルバムを2枚共作している。メルドーが1991年発表の「クエスチョン・アンド・アンサー」を聞いたのか、聞いてたら何か感じたのか、それらが彼自身の感覚に適合した曲だったのかは想像の域を超えないが、そうしたことを頭の片隅に置きながら1999年に発表したメルドーのライブ盤を聞いてると、いろいろ想像は広がるものだ。

 最後に余談になるが、マイルス・デイヴィスの「Solar」という曲での個人的な勘違いが今回見つかった。最初このタイトルをみて、ああ、確かあの曲だろう、と思ったのだが、どうも違和感がある。何か違う気がし始めたので、調べたところやはり最近頻発中の勘違いと判明。
 今回の思い込みは「Solar」を「The Sorcerer」という別曲とずっと勘違いしてたということ。最近こういうの多いな・・・いや最近とはいえないか・・・。なお、「Solar」は1957年に「ウォーキン」に収録されてる曲、一方「The Sorcerer」という曲は、1967年に発表した同名タイトルアルバム「ソーサラー」の中の一曲で、ハービーハンコックが作曲した曲。ともかく勉強にはなった、としておこう・・・。


「ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」/ブラッド・メルドー
The Art of the Trio IV (1999年Warner)
「クエスチョン・アンド・アンサー」 /パット・メセニー、ホランド、ヘインズ
Question and Answer (1990年Geffen)
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ブルックナー:交響曲第1番/ 東京交響楽団 [コンサート(オーケストラ)]

 コンサートを聞いた記録は以前つけていたが、途中で止めてしまったものの、「特定項目」だけは記録をつけ続けている。その「特定項目」に該当するのは、①オペラ、②気になるは作曲家で、現在②に該当するのは、3名の作曲家。そのうち交響曲だけに絞っているのが、ショスタコーヴィチとブルックナー。またハイドンについてはオールジャンルを対象としている。

 さて②対象のブルックナー交響曲であるが、2008年からの15年間に聞いた記録を回数別で整理すると以下のようになっている。
 5回・・・第5番、第7番
 4回・・・第4番、第8番
 3回・・・第6番、第9番
 2回・・・第2番、第3番

 合計回数にすると計28回となり、1年に1~2回程度聞いてる計算になるが、第4、5、7,8が多くなってるのはやはり公演でよく見かけることもあり妥当なところかもしれない。しかしこれまで、なぜか第1番に巡り合えなかった。演奏機会は多くないものの、何度か演目に上がってたのが、なぜかそういう日に限り用事があったり、既にコンサート予定が入ってたりして、今まで機会に巡り合うことがなかった。今回ブルックナー交響曲29回目にして、ようやく第1番が聞ける、というのは格別な思いがある。

 第1番については第2番、8番と同じハ短調。演奏時間は他の作品と比べ短めということで、とにかく昨日聞いてみた CDでも事前にアウトラインなぞっておいたが、やはり実際に聞くと全然違う。

 1866年ブルックナー40代前半に作曲されたこの交響曲には、既にその後の交響曲に何度も登場するブルックナーらしさの片りんが随所に出てきていた。CDでさらっと耳にしたときは、特徴やらしさが若干薄目なのかとの印象もあったが、この日の演奏を聞くと、ブルックナー色は十分に表出されており、エネルギーが割とストレートに出て、濃い目の曲調にも感じられ部分があった。

 冒頭第1楽章から手ごたえがあり、第3楽章のスケルツォもまさに特性がありあり出てるが、とりわけ第4楽章は非常に聞きごたえは大きな手ごたえを感じられた。
 ジョナサン・ノットのブルックナーは何度か聞いたが、今回の演奏も全編引き締まった時間で、ブレもなく、冒頭からラストまでしっかりした構築さを持って、あっという間の時間が過ぎていった。

 充実した時間で、聞き終えたが、今回初台のオペラシティ相当に久しぶりにだった。遡ってみると前回来たのは多分10年前くらいだったよう。そうしたことが関係したのか、電車で向かう途中乗り換えを間違え(京王線と京王新線)てしまった。余裕見て早めに出かけたから間に合ったが、最近こういう思い込み、勘違い、早とちり、失敗は明らかに増えてきていてる気がする・・・。

指揮:ジョナサン・ノット/ 東京交響楽団
2023/10/21 東京オペラシティコンサートホール

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ヤナーチェク:グラゴル・ミサ/ 東京交響楽団 [コンサート(オーケストラ)]

 前日にマーラー交響曲第3番聞いた翌日もコンサートへ。前日のコンサートは充足感が大きかったこともあり、またこの日は知らない曲ということで、事前準備はさっと軽めに出かけた。ヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」という知らない曲、古代スラブ語によるミサ曲なので、なんとなく静謐で・穏やかな時間、ゆったりとした時間で・・・そんなことに予想していた。
 しかしそんなことにはならなかった。

 前半はドビュッシーの交響的組曲 「ペレアスとメリザンド」、まどろむように、とりとめない時間を通過し、後半のヤナーチェクへ。

 冒頭の金管ファンファーレで、おやっと思ったが、この後の第3~7曲まで「キリエ」「グローリア 」「クレド」など、いわゆるミサ曲らしいタイトル曲が続くので、このあたりは静かな合唱や独唱が入るかと思いきや、全然違った。
 実際の音楽は冒頭から全体に力があり、合唱や独唱も強い。曲のタイトルイメージと随分差異がある。しかも聞き進めるにつれ、力強く、濃厚な音は継続しており、実際の音とイメージはどんどん乖離してゆく。合唱曲というより、なんかオペラ作品的に近いのか、そういえばヤナーチェクには何作かオペラ作品があった。

 気が付くと、先の予測ができないこの音楽に巻き込まれ、次第に引き込まれていった。エネルギーが膨大で、パワフル、こんな構成と展開の曲、今まで聞いた音楽の枠内にあまり収まらないのでは。独唱も合唱も力強さがあり、ティンパニの強打、そしてオルガンが上方から切り込んでくる。

 中間部は独唱と合唱があり、第8曲はなんと「オルガン・ソロ」。この終盤でオルガン独奏か、と驚いたが、凄い迫力あるオルガン音色にガツンとやられた。そしてラスト第9曲は冒頭を反復し、終わる。

 これまでの音楽経験を振り返ってみても相当異質な曲に思えたが、破格の構成をもったこの「グラゴル・ミサ」、とにかくエキサイティングな40分あまりの体験だった。複雑な拍子、合唱と独唱のパワフルさ、オルガンの大々的フューチャー、そしてエネルギッシュな音楽が展開するこの曲、演奏機会は少ないようだが、またいつか聞きたいものだ。

指揮:ジョナサン・ノット/ 東京交響楽団
2023/10/14 ミューザ川崎シンフォニーホール

ソプラノ:カテジナ・クネジコヴァ
メゾソプラノ:ステファニー・イラーニ
テノール:マグヌス・ヴィギリウス
バス:ヤン・マルティニーク
合唱:東響コーラス
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マーラー交響曲第3番/日本フィル [コンサート(オーケストラ)]

 最近、5年以上のブランクを経てもう再会する曲が増えてきたような気がする、今回のマーラー交響曲第3番も8年ぶり。

 この曲はマーラーの中でもとりわけ演奏時間が長く、100分近くかかるが、本来は曲が長いとか短いという点をそれほど考慮する必要はないとは思いつつも、やはり40分前後の交響曲と100分近い交響曲を聞くのでは、聞く前の意識は同じようにいかないところがある。事前にある程度進行の目安を掴んでおけば、途中迷うことが少ないと思う。もちろん事前に聞いておくといいのだが、第1楽章が30分近くある、4楽章アルト独唱、5楽章が合唱、最終楽章も20分超える、という程度でも目安にはなるだろう。

 最近疲れやすいせいか今回は少しペース配分を考えて聞いてみた。全6楽章で100分間のも間継続集中するのはやはり難しいから、マラソンをイメージし、あまり最初から飛ばしすぎないようにした。冒頭第1楽章から30分を超え、何かこれだけで独立したひとつの交響曲としてもいいくらいの規模だが、いつもより入り込みすぎないように多少意識した。第2~3楽章にかけては、ゆるやかな音楽に入ってくゆき、マーラーが山間の静養地で作曲したこと、夏、自然、動物たちなどのイメージを持って聞いてると、いい感じに脱力して聞けた気がする。特に第3楽章のポストホルンの響きの箇所はとてもナチュラルで響いてきた。

 そのあと、独唱・合唱を経て、最終楽章。この冒頭の弦楽合奏によるテーマはマーラーの最も美しいアダージョと改めて感じた。そこまでテンポを早めることなく、じっくり進めてきたが、この楽章での情感の発露の広がりには、思いが滲みでてくるようなそんな音だった。フィナーレには、この曲の持つ多様な音楽描写や広大な深さが、包み込むように終えてゆき、大きな充足感があった。

 聞く前は時間の長さを考えていたが、聞き始めると時間は徐々に後退し音楽の中に没入していったようだ。聞き終えると時間の長さがそれほど意識されてなかったのは、音楽の引き付ける大きさ故なのかもしれない。こういう曲は身体的な体力とは違った、聞く体力というべきものも大切かもしれない。
 

指揮:カーチュン・ウォン/ 日本フィルハーモニー交響楽団
2023/10/13日本フィル定期演奏会 サントリーホール
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ポール・オースター「闇の中の男」 [ポール・オースターの本]

 前回読んだ「写字室の旅」とカップリングされてていた「闇の中の男」の方も先日読んでみた。この2作とも、老人が室内で回想・空想しながら進行してゆく共通項はあるのだが、読み終えた感触は異なったものだった。

 2013年に「Day/Night」というタイトルでまとめられてるが、「闇の中の男」の方は眠れぬ夜中に物語を考えてゆくことから「Night」に該当する作品なのだろうが、重たい感触が底辺に残る。老いからくる身体の不自由さ、娘と孫娘の抱える苦悩・悲しみ、答えの見いだせない世界、そして戦争がもたらす現実的な悲劇と苦しみ。そうした中、空想世界で物語が進行してゆくが、国の分裂から起こった戦争に巻き込まれてゆく。葛藤と逃れられない運命に飲み込まれながら、ストーリーは唐突にシャットダウンして閉じられる。

 現実部分と別個に動いてきた物語は途中、自分自身も関与させながら、交錯してゆく。そんな中、孫娘とリビング一緒に見る映画の部分はこの作品のなかで、間接的ではあるが現実との折り合いをかすか感じさせてくれる気がした。特に小津安二郎の「東京物語」の挿入箇所は、何某かの救済的な感じをうっすらと添えるように、読み終えたあとどこか印象全体を中和させるようにも思えた。

 全体的に重いトーンで進んでゆくが、最後に多くの解消できない社会のもたらす弊害や問題の中、それでも続く人生にささやかな方向性を、ほんのりとだが残してくれる。いずれも部屋の中の老人という設定で進む2つの作品だが、身体の不具合性の緻密な観察や過去の記憶の回想を自由に泳がせた「写字室の旅」と「闇の中の男」は随分異なったテイストであったが、老いという問題が見せる2方向の世界としてとらえておくのが自然なのかと思った。

 この作品の物語パートでは国が分裂し、内戦状態に陥った世界が書かれてるのだが、国の中での内戦という状況設定を読んでるうちに今年読んだ一冊の作品が呼び起こされた。スティーヴン・クレインの南北戦争を題材とした「赤い武功章」(1895年)。この作品を読むこととなった契機は、オースターの近年の動向チェックしてる中に、2021年に発表した「Burning Boy: The Life and Work of Stephen Crane」という作品があった。この全く知らない作家、”Stephen Crane”とは何者か、とにかく一度読んでみようと思ったことだった。図書館で「赤い武功章」という作品を借り、読んでみたのだが、時代設定や南北戦争という知識に対し関心は低く、馴染みも薄い題材だったものの、死の可能性に直面しながらもどこか淡々とした記述のトーンは妙に印象が残った。今回「闇の中の男」を読んでる途中、国の分裂と内戦状態のあたりに差し掛かって時、そのバックグラウンドにスティーヴン・クレインの作品が想起されていた気がしたのだった。

 そして、もう一つ細部で気になったのはナサニエル・ホーソーンという作家の末娘の話が挿入されている点。ホーソーンという人は名前は聞いたことがあったが作品は読んでないが、オースター作品で既に言及されていることもあり、こちらも今後課題読書にリストアップしておいた。

ポール・オースター/「写字室の旅/闇の中の男」(2007、2008) 柴田元幸訳 新潮文庫
Travels in the Scriptorium 2007、Man in the Dark 2008
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ラグビーワールドカップ2023 [その他]

 過去ある時点で強い印象があると、「あれから〇年が経ったのか・・・」と振返ることがある。4年前のラグビーワールドカップはまさにその顕著な例で、前回2019年9月に横浜でスコットランドVSアイルランド戦を観戦した、まさにその日が記憶の軸として今も残っている。

 あれから4年か。一カ月前から始まった今回の2023年フランス大会も、ここまで相当観てきた。時差の関係でほとんど録画して見ているが、既に10試合以上は見ている。この一か月間は音楽聞いてる時間よりはるかにラグビーの試合見てる時間のほうが多いはず。

 これだけ見てると飽きのようなものもありそうだが、毎試合ごと予測不能な展開が待っており、これが面白いのかもしれない。データ分析や緻密なゲームプラン、デザインされたサインプレーなど、事前準備が試合にも反映されつつ、雨が降ったり、高湿度でボールが滑ったり、怪我人、反則やミスなどのアクシデントもあるし、そこに楕円球のもたらす制御不能なバウンドも起こる。

 どのスポーツでも偶然性がもたらす部分はあるが、ことラグビーでは得点シーンに大きく影響してることが多いような気がする。劣勢だった状況が相手のパスをインターセプトし、一気にトライしてしまうとか、苦し紛れに蹴ったボールが敵陣深く入り、イレギュラーなバウンドし、そこから得点につながったとか。それでもこうした偶然性の局面を瞬時につかみ、嗅覚や感覚で動くことができるのはすごいなと思し、一見偶然性に見えたプレーの中に、実は計算してたり、狙っていたものもあり、そういう意味では必然的要素も含まれてるのだろうと近年思うことが増えてきた。事前にできるだけの準備し、実際のゲームではコントロール不能な要素が大きく局面を動かすが、偶発性を必然的な結果につなげるために、瞬時に反応できるというための準備もあるのだろう、などと思いつつ見ている。

 またこうしたゲーム見ながら、ふと自分自身のことも考えることも最近あった。自分には完璧主義的な気質が強く、偶然性に委ねたり、意外性や突発性に反応するのが苦手なのだが、こうしたプレーにおける瞬時で新たに発生した局面に反応し、打開する選手の動きを見てると、以前はすごいなと思うだけだったが、学ぶものが多い気もしてくる。
 最近自分自身の生活環境で、不可解な状況や迷う局面が立て続けにあって、うまく反応できないことが続いてる。いちいち状況の変化に戸惑うのは、まだまだ予測が不十分だったからではないのか、最初から何が起こるか決めつけすぎてたのではないか。そんな中ラグビーの試合見ながら、自分には、確かに瞬時に判断する能力は低いが、状況の変化を受容する心構えのようなものはもう少し持ってたほうがいいな、などと考えながら見てると、スポーツ観戦といえども、奥深く、なかなか飽きないものだ。

 予選プールも終盤に差し掛かり、明日の日本戦は楽しみだが、ベスト8から先もまた楽しみである。
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ヴェルディ:ドン・カルロ/東京二期会 [オペラ]

 普段なら東京公演を選択するのだが、あいにく日程が折り合わなく、他公演があったので今回はそちらを選択。このため今回は横須賀遠征となった。このホールは10年くらい前に一度訪れて以来のことである。

 普段行ってるホールであれば、交通経路、所要時間、ホール設備などわかってるので、それほど考えることはないが、10年ぶりの場所だとそうはいかないのである。どうにもこうにも不慣れな場所はむやみに緊張してしまう習慣は相変わらずである・・・。開演が13時と早めだったので、普段より時間の余裕もみて外出、京急に乗換え、汐入駅で降車。遠くに来たなという実感あり。

 とりあえず予定時間に到着し、軽く小腹を満たしてから、席につく。今回公演は休憩挟み4時間20分という長時間の作品。実際のところ、近年はできるだけ長時間作品を選択するのは少なくなってきて、やはり年齢的な影響は無視できない。以前は出来るだけ多くのオペラを観たかった時期があり、長時間だろうと時間なんか全く気にならなかったのだが、近年トイレが近くなったり、体調が不安定なことが増え、疲れやすさも重なり、なんとなく長時間ものは回避してきた気がする。とはいえ、これは見逃せないというものもあり、今回のドン・カルロはまさに見逃したくない作品であったので昨日観てきた。

 演奏会形式やMETライブビューイングも含めると今回が4回目だったが、最初観た時から徐々に気に入っていく気がする。今回は少しペース配分を考慮し、ゆったりした気持ちで観たのだが、やはりこの作品はヴェルディの魅力を詰め込んだ作品だと思った。

 ドン・カルロは、かなわぬ恋、息子と父の葛藤、自己犠牲、宗教裁判などの多様なテーマが盛り込まれており、音楽も低音のアリアをクローズアップしたものが多いが、とにかく多様な音楽が織りなす作品だと改めて思った。

 また今回は前回観たオーソドックスな演出とは異なり、解釈はなかなか興味深かった。国家に翻弄される個人があり、そこからにじみ出てくるパーソナルな感情部分にフォーカスしてる感じを強く受けた。カルロの情けない感じや弱さ、フィリッポⅡ世の露わな迷い、起伏のある感情が実はストレートに見えてくるエボリ公女。また感情が濃厚にクロスすると思ってたが、登場人物の距離感にためらいのようなものも感じられ、このあたりは興味深かい演出に思えた。白と黒のコントラストの使い方も良かった。今まで固定的な視覚イメージで聞いてきた部分に対し、別の視点から異なる解釈で照射すると、随分と違ったものに見え、そうか、そういう感じもあるのだな、と思う箇所がかなりあり、そんなことを考えさせながら時間は過ぎていった。

 帰宅してから、ビール飲みながら、とにかく音楽たっぷりと聞いたな、という感じでボーっとしながら夜の時間をただ過ごした。

2023/9/30/よこすか芸術劇場
指揮:レオナルド・シーニ/演出:ロッテ・デ・ベア
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

フィリッポⅡ世:妻屋秀和
ドン・カルロ:城 宏憲
ロドリーゴ:清水勇磨
宗教裁判長:狩野賢一
エリザベッタ:木下美穂子
エボリ公女:加藤のぞみ 他
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