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ポール・オースター「幽霊たち」~ホーソーン「ウェイクフィールド」 [ポール・オースターの本]

 いわゆる「ニューヨーク三部作」の作品の2作目にあたり、その後の多様な作風のラインナップの中でもひときわ異質さを放つ。探偵小説とハードボイルド風のテイストが強く、登場人物に割り当てた名前が匿名性を帯びた色名にしたこと(ブルー、ブラック、ホワイト、ブラウン)で、個の存在感はドライで、どこか透明な壁が挟まっているかのよう。短い小説(文庫本で122ページ)だが、初めて読んだオースターの小説で、ここからオースター作品に興味をもつこととなった作品。もっと端的に言うならば、冒頭1ページ目の人物設定を読んだ瞬間から、惹き付けられた気もする。

 見張るという行為に含まれる多くの待ち時間、孤独さと背中合わせの都市空間、延々と続く何も起きない日々。その停滞する時間の中から空想や妄想が生じ、肥大化してゆくうちに、退屈さにしびれをきらし、まるで事態を攪乱させるような行動に出る。

 最低限の外出、定期的な郵便での報告。とにかく物語は遅々として動かないまま進んでゆき、ある種退屈な展開ともいえるのだが、それだけで終わるわけはない。退屈な現実に空想が介入し、徐々に現実と非現実の境目が濁りだす。思考はぐるぐると放埓に伸び、ずっと動きがない状態に耐えがくなり、ついに動きだす。変装を持ちいて見張り相手に接触する、というリスク含みの行動に。わずかな裂け目を作り、そこで何かが反応する様を見たくなる。

 この小説には音楽はもとより、生活の雑音などの音もほぼ聞こえなく、サイレントな作品だとも感じた。無音の中、無声映画を見てるかのように。そして会話も非常に限定的である。
 人物に色の名前を与えることで個性を取り払い、登場人物の実在性は薄く感じられのに、読後の感触に匿名性を帯びたはずの存在感の影は強く残る。そして都市空間における孤独さがもたらす濃厚な影は、こうして今現在を過ごしてる自分の日常や生活の中に潜む、生の不安の影とどこかで重なってくる。

 そうした中、探偵が対象人物に接触する行動の下でなぜか話の俎上に上がってくるのが、過去のアメリカの作家たち(ウォルト・ホイットマン、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ホーソーンら)の人生や生活などのこと。状況からするとあまりに奇妙なのだが、その後物語の中で、さらに言及されてくのが作品が次の2作である。

・ヘンリー・デイヴィッド・ソロー「ウォールデン」
・ホーソーン「ウェイクフィールド」

 オースター作品には都市と密接に関わってる要素も強いが、一方で日常生活から隔絶した状況下という設定も何度か出てくる。ソロー「ウォールデン(森の生活)」は読んだことがまだないが、都市生活から離れ、ひっそりとした環境下での生活などはそのあたりとクロスするのだろう。

 そしてホーソーンの短編「ウェイクフィールド」。何の前触れもなく失踪する男の話で、このあらすじは1ページくらい使い、この小説内に差し込まれている。会話の中でその小説のあらすじが言及されたあと、対話自体も唐突に終わる。

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 ナサニエル・ホーソーンという作家は、先日読んだ「闇の中の男」でも取り上げられていたが、この「ウェイクフィールド」という短編を先日読んでみた。ストーリーは極めてシンプルで、あっけないくらいである。突然夫が失踪するが、近くに部屋を借りそこで暮らす。20年ほど経ったある日、突如妻の元に戻るという内容なのだが、しかし読後の不可解さは消えない。もしこの失踪が1週間とか1カ月程度で、何らかの理由が述べられたなら、ある種のハッピーエンドで収まったかもしれないが、20年である。しかも動機や理由は判然としない。

 ある意味夫は近くで妻の生活を見続け、見張っていたともいえる。そしてここには単調な時間も潜んでいる。そして都市空間において沈黙を保ちつつ、ある種の隔絶した状況を生みながら淡々と過ごす、という構造は、オースターの「幽霊たち」の探偵の行動と重なる部分もあり、そういう点からみてもホーソーンの小説を挿入したことは非常に意味深い。
 このホーソーンの短編は、何も起きないのに不気味な感じを受ける作品である。しかしそれらの行動が全く異常な行為とは思えないところもある。外界から姿を隠しひっそり生きるなどの行動への欲求のようなものは、直接的ではないにせよ、何某かの形で自分にも潜んでる気がする。例えば自分自身に抱えているある種の逃避願望などは、この小説を読むと意識の片隅に上がってくるのだ。

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 この「幽霊たち」は今回4度目の再読で、おそらく個人史上もっとも繰り返し読んだ小説になる。その後のオースター作品にしばしば現れる、隔絶した状況設定、単調さから生まれてくる思考、そして崩壊、そうしたモチーフの断片のいくつかは、この「幽霊たち」に組み込まれているが、人が避けて通れない孤独の時間との関わりについて、語りかけてくるものがあり、そうした点からも繰り返し読むことがか可能な作品だと思える。

「幽霊たち (Ghosts 1986)」 / ポール・オースター 柴田元幸訳  新潮社
「ウェイクフィールド」(Wakefield)/ナサニエル・ホーソーン ・・・「アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書) 」より
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パット・メセニー「ブライト・サイズ・ライフ」 [ジャズ関係]

 今年の中古CD購入記録を振り返ってみると、半分がジャズ関係、中でも一番多かったのは、パット・メセニーの5枚だった。
 パット・メセニーの作品は以前から関心は維持していたが、ここ数年間は特に意識的に聞きだし、今年はさらに多かった。最初に聞いたのが90年後半くらいだったろうか、その後スローペースながら聞き重ねてゆき、ここ数年集中的に聞いてきたこともあり、これまで聞いたメセニーのソロ活動、グループ活動作品はおよそ20作品まで増えた。こうして枚数レベルで振り返ると、かなり深まった気もするが、道はまだまだ深く長い。
 とにかく音楽活動期間がたいへん長く、メセニーの音楽活動は50年近く経ってるが、新作発表は続いており、また来年は日本ツアーもあり、現在進行形のミュージシャンである。そんな彼の活動を遡っているのだが、とにかく膨大な量の作品があり、さらに演奏形態やフォーマットも多様なので、いまだに全貌がなかなかつかめないでいる。

 さて今年買った一枚のうち、1975年12月に録音されたデビューアルバム「ブライト・サイズ・ライフ Bright size life」はやはり特別だ。トリオ演奏による全8曲のうち、スタンダード曲なし、自作曲が7曲(残り1曲はオーネットコールマンの作品)という構成から、すでに特徴が出てる。演奏時間が4~5分にまとめた曲が多く、その後の曲に比して短めの曲の構成に感じるが、メロディーラインもしっかりと輪郭を持った曲が多く、また現在にも通じる特徴的なギター音色はすでにこのデビューアルバムで現れている。さらにジャコ・パストリアスの参加による、ベースの独特な存在感は非常に大きい。翌年の「ウォーターカラーズ」からはライル・メイズが参加し、ジャコの参加はこの一枚だけだと思うが、そういう意味でのもこの編成は特別なものに思える。

 ちなみに、アルバムの曲のタイトルを眺めていて気が付いたのだが、この後の作品に再登場する単語がいくつかあったで、ちょっとだけ関係性を調べてみた。

・3曲目「ユニティ・ヴィレッジ Unity Village」の「ユニティ」は2012年に作品発表した「ユニティ・バンド(Unity Band)」で登場。
・4曲目「ミズーリ・アンコンプロマイズド Missouri Uncompromised」の「ミズーリ」は1997年にチャーリー・ヘイデンと共作した「ミズーリの空高く」( Beyond the Missouri Sky)とリンク。
・8曲目「ラウンド・トリップRound Trip」の「トリップ」は2008年に発表したアルバム「デイ・トリップ」 Day Tripを想起させる。
・また6曲目「アンクゥイティ・ロード Unquity Road」の「ロード」 という単語は、1993年ライブアルバム「ザ・ロード・トゥ・ユー(The Road to You)や2021年の「ロード・トゥ・ザ・サン」(Road To The Sun)でも出てくるが、ジャケットにも道路、ストリート、路面などがいくつか用いられ、このROADという言葉は、何かメセニー作品のイメージをつかさどる重要なキーのひとつかもしれない。

 まだまだ聞いてないアルバムが多いので、来年も継続して進めてこうと思ってる。

CD:「Bright Size Life」/Pat Metheny(1976年ECM)
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ドビュッシー「前奏曲集」/三浦友理枝 [コンサート(その他)]

 ドビュッシーの作品は、どうも接点が見えにくいと感じている。感触があやふやで、どこか宙ぶらりんの状態に陥てしまうこともあるが、時折音楽に触れた瞬間もある。しかしそれらは長く続かず、やがて霧のように流れ去ってゆき、手ごたえのような確たるものが残らない、そんな印象をずっと抱えてきている。

 そもそもピアノ演奏会は近年ご無沙汰しており、またドビュッシーのピアノ曲は本当に久しぶりのことで、さらに「前奏曲第1巻~第2巻」という全曲演奏という珍しい内容でもあり、事前に曲を2,3回聞いて全体感の雰囲はなぞっておいた。

 昨日聞いてきたが、前半の第1巻は思ってた以上にじっくり聞けた。音に耳を傾けても、すぐ離れてしまうことが多かったドビュッシーのピアノ作品だが、やはりホールでの音に対峙すると、全然違った。7曲目の「西風の見たもの」では風の強さを思わせる猛烈な演奏部分もあり、11、12曲目はリズムもあり接しやすかった。その中で10曲目の「沈める寺」の徐々に演奏が盛り上がってゆき、スケール感も感じられ、この第1巻の中核に位置してるようにも感じられた。

 後半の第2巻は、第1巻と比べると、冒頭の「霧」の動きの見えにくい曲も含まれており、曲にあいまいな空気感が漂う部分も感じられたが、第1巻からの連続性で聞いたことで、事前予習した時よりもクリアに届く曲もあり、実演奏のリアリティを感じられた。ハイライトは最後の「花火」で、花火というイメージと掛け合わせやすく、派手やかな演奏はダイナミックな展開でたいへん聞きごたえがあった。

 この演奏会は「ドビュッシー・ピアノ作品全曲演奏会」の3回目ということだが、演奏前に本人からの曲解説などもあり、また聞き終えてから手ごたえも実感できた感覚があり、曲に融和できた部分もあったかもしれない。そういうことで今回の演奏会は大変有意義なものとなったが、このシリーズは全4回で次回が最終回となるようだが、ぜひ次回も聞いてみたいものだ。


2023/12/16 フィリアホール
ピアノ:三浦友理枝
ドビュッシー・ピアノ作品全曲演奏会 第3回 
前奏曲集 第1巻~前奏曲集 第2巻
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ハイドン交響曲集(続き)~ヨーゼフ・マルティン・クラウスの交響曲 [ハイドン]

 9月にハイドン交響曲のボックスセットのこと書いた後、続きをすぐ書くつもりだったが遅れてしまい、今回ようやく書いた。こういうケースは一旦手を止めると再開が結構面倒になることが多いので、今後は勢いのあるうちに連続してやろうと思った。
前回分: https://presto-largo-roadto.blog.ss-blog.jp/2023-09-03

 さて、今回のハイドン交響曲のボックスセットには、特徴的な構成として、他の作曲家作品も入っている点がユニークである。同時代的な作曲家の音楽との関連性等の紐づけただろうが、そのうち何曲かは意図的めいたものも感じさせられる。

 例えば、10枚目は:「一日の時の移ろい」と包括タイトルを付し、ハイドン交響曲第6番~8番(通称「朝・昼・晩」)が入ってるが、ここに組み合わせたのがモーツァルト「セレナード第6番」(通称:セレナータ・ノットゥルナ(夜のセレナーデ)。ということで、一日のサイクルに夜を加えて統一させたのだろう。
 また、7枚目は「宮廷劇場とその監督」ということで、モーツァルトの劇付随音楽を加えてるが、このCD収録の4曲にはすべて「Impresario」という項目がついている。「Impresario」という言葉は知らなかったが、興行主という意味らしく、ここでは宮廷劇場で監督した人物があった作品を集めたようだ。

 こうした関連付けの中の曲でインパクトが強かったのは、モーツァルト:「エジプトの王タモス」という作品。この作品は初めて聞いたが、デモーニッシュな音に驚いた。調べてみると、改訂があったものの初稿は1773年ということで、10代の作曲作品のようだが、後のオペラ「魔笛」との関連性も感じられる。実際聞いてみた音楽には、ドン・ジョバンニのオペラで聞こえてくる音の片鱗があって、なかなか惹き付けるものがある。

 そして、5枚目にはヨーゼフ・マルティン・クラウスのハ短調交響曲VB142が収録されている。

 クラシック聞き始めの頃、ナクソスレーベルでこの曲を聞いたのだが、あれから10年以上経過し、今回聞き直してみると初期の印象とは違った感じも受けた。この短調曲に、ハイドンの疾風怒濤時期の短調作品(例えば交響曲39番や45番あたり)を並列的に配列してみると、その暗いドライブ感を伴った音楽にはどこか共通点も感じられる。

 「スウェーデンのモーツァルト」の異名があるように、クラウスのハ短調交響曲にはモーツアルトの交響曲第25番あたりを想起させる。ただクラウスの曲のほうがより沈むような深さの中に、速さと鋭利さを潜入させている印象がある。冒頭の導入部はより底の深いところに潜む沈痛さのような感情もあり、第三楽章には抑制しがたい緊張感が走るなど、全体的にも奥行きの深さを感じさせる。

 モーツアルトとほぼ同年の生涯を辿ったクラウス(1756年~1792年)だが、調べてみると、どうやらこの曲はハイドンに献呈された曲とのことだった。なるほど、この曲とハイドンの関連ここにあったのか。献呈されたのが1783年ということからすると、このCDのクラウスの曲の前に配置されたハイドン交響曲第80~81番は、時期的にも重なることになり、何か相互間の影響もどこかにあったのかもしれない。

 ハイドンだけにとどまらず、こうした同時代の作曲家作品を配置することで、より多角的に見えるものがあった。前後の時代背景など少し探りながら、あれこれ想像も交えつつ、そうすると面白さは増加するようだ。

 なお、参考までに、このCDボックスにおけるハイドン交響曲以外の作品は以下の通り。

● グルック:ドン・ジュアン、または石像の宴~無言舞踏劇(1761年パリ版)
● W.F.バッハ:交響曲ヘ長調 ~弦楽合奏と通奏低音のための
● チマローザ:カンタータ『宮廷楽長』
● クラウス:交響曲ハ短調 VB 142
● モーツァルト:劇付随音楽『エジプトの王タモス』 K.345/336a(抜粋)
● バルトーク:ルーマニア民族舞曲集
● 作曲者不詳:ソナタ・ユクンダ(愉しき奏楽)
● モーツァルト:セレナード第6番ニ長調 K.239『セレナータ・ノットゥルナ』
●ハイドンの交響曲以外の作品
    歌劇『無人島』 Hob.XXVIII-9~序曲
    アリア『ひとり、物思いに』 Hob.XXIVb-20
    ベレニーチェの告別の場面(レチタティーヴォとアリア) Hob.XXIVa-10

CD : HAYDN 2032 - ハイドン交響曲全曲録音シリーズ 1st BOX (Vol.1-10)
指揮:ジョヴァンニ・アントニーニ
イル・ジャルディーノ・アルモニコ 、 バーゼル室内管弦楽団
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キース・ジャレット「ザ・メロディ・アット・ナイト、ウィズ・ユー」 [ジャズ関係]

 落ち着きがなく、モノもよく見えないとき。今の気分がどの方角に向いているかがわからないとき。そういう時、音楽で整えようと試みることはよくあるが、どうにも聞きたい音楽が見当たらなく、ぽっかりと空いた時間がただ目の前にある、そんなときもある。

 それでも音楽のことをとりとめもなく考え、この気分に合う音があるかもしれない、と探し続ける。そうこうしながら、久しぶりキース・ジャレットのピアノを思い出した。
 手元に残ってるのは数枚だが、この日手にしたのは1999年に発表した「ザ・メロディ・アット・ナイト、ウィズ・ユー」というアルバム。随分長く、おそらく10年近く聞いてなかったのかもしれないが、聞いた時からずっと手元に残しておきたいと思った一枚。

 キースのピアノが響いてくると、すっと音の方に向き合ってゆく。焦点が定まらない不安定な場所から、透明な、訥々としたピアノの音に耳の焦点が定まってゆく。不安感は残ったままだが、日常や現実の生活は少し後退し、ピアノの音に耳を傾けてゆく。
 70年代のケルンコンサートのような研ぎ澄まされた集中力と透明感の中、高い緊張感のある音とは少し違う。高いテンション、無限に拡張してゆくような広がりはひそめ、それに代わって、ひとつひとつの音が大切に、包み込むような柔らかさで、静かな時間を生み出してゆく。1996年に 「慢性疲労症候群」という難病で活動休止してたのち、復帰作として発表したのがこのアルバム。スタンダード曲中心に、自宅スタジオで録音されたこのアルバムは、それまでのトリオ演奏やソロアルバムとも質感が異なり、もっと穏やかか感情が横たわるよう。混じりけのない、すっとした音が、荒れた海原を鎮め、気持ちのどこかに謙虚さな面持ちに似た感情が訪れてくる。

 ピアノの音を聞きながら、自分の心を横切って行った様々なことがスクリーンに映し出される。わかっているのに、できないこと。合理的でないこだわりの多くが拘束し、何度も同じところで、同じ過ちを冒してしまう日々。そして突然フィードバックしてくる過去の後悔が亡霊のようにさまよい歩いてゆく。制止など振り切って暴走してゆく心の動きに翻弄され、どうにもならず、もがき、落下し、ただできるのは時間が経過してゆくことを待つだけ。

 そうした中、キース・ジャレットのピアノが寄り添うように心に響きをしっかり残す。こんなにも美しい旋律が、心の襞に触れてゆく。いろいろな問題は解決しないまま続くが、それでも音楽がこうして、心に養分を与えてくれる。それが滋養となり、また少しだけ目線を上げて進んでゆこうと。

「ザ・メロディ・アット・ナイト、ウィズ・ユー」(The Melody At Night, With You)
/キース・ジャレット(1998年録音 ECM1999)
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