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「存在の耐えられない軽さ」・ミラン・クンデラ [その他の本]

 クンデラの小説を初めて手に取ったのは20代後半のころだったろうか。映画「存在の耐えられない軽さ」は印象的な作品で、ある日図書館で本の棚を眺めていた時、その映画の題名本が目に留まった。あの映画の原作作家の本かと思いつつ、チェコスロバキアという未知の国の作家であること、またそれ以外に「不滅」、「冗談」、「笑いと忘却の書」などのタイトルにも何か惹かれるものがあった。

 それから少しずつ、この作家の本を読み、これまで8冊くらいは読んできた。今まで読んだ作家にはなかった物語の展開さ、登場人物の魅力、会話、関係性と距離感など惹かれる要素が多かったのだが、読後の感想を語ろうとするのは極めて難しかった。物語のみならず、問いや投げかけ、複線的な逸脱も多く、都度感じたことは多かったが、読み終えた後のトータルな感想というのが、乱雑で、未整理状態の感じになることが多かった。

 以前からクンデラの作品について感想でも書きたいと考えつつ、なかなか書けなかったが、2023年7月に94歳で死去したというニュースを聞いてから、また再読したので、今回「存在の耐えられない軽さ」を書いてみようと思った。

  チェコスロバキアの1968年に起こった「プラハの春」という民主化運動周辺の時代背景に、主要人物は4名(外科医トマーシュ、テレザ、画家サビナ、フランツ)が登場、ただし特定の主人公というのはなく、トマーシュとテレザを軸にしてるようにも思えるが、トマーシュとサビナ、サビナとフランツという関係性もある。

 冒頭で、軽さと重さの対立に対しての多義性を提示して、各人物の視点が交互に入れ替わりながら、時に俯瞰的、回想的に語られてゆく。偶然性というメッセージの意味するもの、裏切り、嫉妬、同情、などの行為や感情を交えながら、存在というものが重いのか軽いのか、という問いがよぎってゆく。

 この小説でいくつもの出来事や作品に関する言及があるのだが、中でもベートーヴェンの弦楽四重奏曲については、極めて重要に扱われ、場面を変えながら何度か取り上げられている。特に弦楽四重奏曲第16番 作品135の終楽章における「そうでなければならないか?(Muss es sein?)」~「そうでなければならない!(Es muss sein!)」という言葉の解釈については諸説あるが、ここでは、この謎めいた言葉に対し、「・・・冗談をメタフィジカルへと変化させた。これは軽いものから重いものへの変化についての興味深い話である・・・」(第5部「軽さと重さ」より)という部分がこの小説のモチーフに重なりあうように響く。

 自分自身にとっても、この弦楽四重奏曲第16番 作品135は極めて重要な曲で、改めて振り返ってみても、自分をクラシック音楽へと引き込んだ決定的な一曲でもあった。後期弦楽四重奏曲の重厚さの中において、どこか軽やかさがあるこの曲の存在が、自分の波長とピタリと適合した時の感触はいまだに残っている。
https://presto-largo-roadto.blog.ss-blog.jp/2009-11-28

 とはいえ、この重層的な小説は、時々哲学的な問いが雲の隙間から現れ、前後の関係性を容易に結び付けるのが難しい部分もでてくる。小説は7部に分割されているが、中でも第6部「大行進」は難解で、俗悪(キッチュ)なもの、存在との絶対的同意といった言葉や、挿入されたスターリンの息子の人生、政治家や共産主義、東南アジアでの行進などの物語について、それらが全体とどう関わっているのかについて、まだうまく理解できておらず、そうした未消化部分も残している。

 重さと軽さ。
 物事を重くとらえる傾向は自分の中で強く、自身の全体傾向は間違いなく重さを基調としてるのだが、一方で、突然どこかで、ふわっとライトな感じが漂うことがある。気が抜けるかのように、空白が生じること、ただそれは長く続くことはないが、もしかすると本当は軽さの側面に重要な何かが潜んでるのかもしれない、と時々思うことがある。

 何度か読み直すことが可能な作品で、クンデラの別な作品についても書いてみたいものだ。

「存在の耐えられない軽さ」(1984年)/ミラン・クンデラ(1929~2023)
/千野栄一訳(集英社 1993年)


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「レコード芸術」休刊のニュース [その他の本]

 先日「週刊朝日」の休刊について書いたが、今度はクラシックレコード評論の月刊誌「レコード芸術」が今年度7月号で休刊とのこと。なんでも、この月刊誌は1952年3月に創刊ということで、70年近い歴史で、自分もクラシック音楽を聞き始めの頃、この雑誌はたいへんお世話になった。

 クラシック音楽聞き始めの頃、新譜情報や公演情報、アルバムガイドなどを知るために情報誌やパンフレットなどから入っていったが、ある程度経験知識が増えた後になってから「レコード芸術」を読んでみた。以前にも、ロック・ジャズ時代に音楽雑誌は読んでたが、この「レコード芸術」の文書はかなり深い表現が多く、雑誌の濃密さにも驚かされた。とにかく文書が詳細で解説も細部にこだわる丁寧なものが多かった。
 
 しかし実際に読んでみると、音楽の専門知識の欠落や技術的な用語を知らないことに直面し、理解不十分な部分も多かったのだが、それ以外にも音楽に対する表現方法はロックやジャズなどに用いられていた用語や言い回しなどとは異なる用語が多く、あまり見聞きしたことのない単語が多く用いられていることに気が付かされた。
 それらの言葉の用いられ方は、それまで蓄積してきた自分の音楽用語の範疇に無かったものが多く、新鮮な驚き・発見があった。感じたことを表現するための形容詞の多さ。ほとんど使ったことのない名詞や動詞のバリエーション。そんな言葉使いがあったのかと、発見が多く、またこうした言葉使いに慣れようと、当時この雑誌の文書から単語を抜き出して、メモ帳に書いたりしたこともあった。その影響はこうした自分の文書にも反映してるのだろうが、全体的には自分の既存の用語感覚とミックスして使っているのだろう。とにかく、新譜レビュー、特集、名盤解説など、濃厚な文書が印象に残っている。

 時代の流れとはいえ、残念なニュースではあるが、また読んでみたくなったので、古本などで見かけたら、買っておこうかと思った。
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書籍「デヴィッド・ボウイ: 変幻するカルト・スター」 [その他の本]

 昔聞いた洋楽を聞いていると、回想することも多くあって、最近は関係書籍なども読んだりしていた。ミュージシャンやバンドの歴史振り返りもの、バイオグラフィー、自伝、音楽雑誌記事など、直近ではエルトン・ジョン自伝やジョニ・ミッチェルのアルバムガイドなど読んだのだが、結構知ってるかと思ってたが、実際聞いてない作品も多く残っており、まだ掘り下げてない部分も多いと感じた。

 そんな中、先月「デヴィッド・ボウイ: 変幻するカルト・スター(作者: 野中モモ)」という本を読んだ。特に何か動機があったわけではなく、ただ相当長いキャリアの活動だから振り返ってみようか、と軽い気持で読み始めた。読んでゆくうちに、過去に購入して聞いた作品もそこそこあったが、長いキャリアを追ってゆくと、聞いたことのあるアルバムは2割程度だった。

 個人的に振り返ってみると、最初に聞いたデビットボウイの作品は「スケアリーモンスターズ(1980)」。FM番組から流れてきたこのアルバムの冒頭、いきなり日本語の語りというのか、ナレーションのような感じで始まる。何だこりゃ、という、とはいえ強烈すぎるインパクト。そして最初にボウイのアルバムで買った「トゥナイト (1984)」は結構聞いた。しかし90年以降の作品は、当時の自分の関心から遠くに感じられてしまい、1、2回くらいしか聞かないで手放し、アルバム的には「アースリング(1997)」以降ほとんど聞くこともなく、遠ざかっていった。

 80年以降の作品から入ったが、そんな中改めて俯瞰してみれば、ベストはやはりあの名盤「ジギー・スターダスト(1972)」になる。物語的の流れと音楽の説得性が強く連結され、アルバムの曲はがっしり隙間なく流れにはまり込んでいる。トータルな完成度は極めて高く、いまだに色褪せない作品だろう。

 ただデビット・ボウイというミュージシャンに対し、深く意識してきたわけではかった。また音楽の方向性と自分のそれとが常にズレていた感覚もあり、のめりこめなかった気がする。ある種の距離感がどこか常にあり、音楽を聞いても自分の手元に繰り寄せられなかった感覚も抱いてきた。しかし気になる存在ではあり続け、何かが引っ掛かり続けていた。一体この人は何者なのかという疑問、ボウイという人物の実体性のあやふやさ、とらえどころのなさへのある種の好奇心は消えなかった。

 今回本を読みながら、時代とともにカメレオン的に様変わりしながら、音楽表現してきた印象があったが、とりわけ気になったのが2000年以降の動き。活動が停滞し、ほぼ引退状態になってほぼ10年経過した後、2013年突然の復活劇。そして2016年、新作発表後の死去のニュース。
 実はこのあたりの状況、リアルタイムでほとんど知らなかった。ボウイが亡くなったニュースを聞いた時も、そうなのか、と素通りさせてしまった記憶がうっすらとしか残ってる程度。本を読み終えてから、この長期の引退期間、60歳を超えての復活、闘病~死までの時間がすごく気になり、今更ながら遺作となった最後の作品と死去の当時のニュースなど読みなおしていた。そして、書籍やCDをネットで注文し、自分なりに振り返りと空白地帯の部分をなぞり始めてた。

 これはよくあるちょっとした関心事で、一時ボウイの音楽聞き直したりする程度なのかもしれない。しかし、先月来どうもにもこうにも気になり続けてる。一体デビットボウイとは何だったのかという疑問、そして現在の自分へ何かがひっかかる。2枚組のベスト盤を中古で購入して聞いて完了するのかと思ったが、それで収まらず、昨日は追加的に購入した2013年の復活作「The Next Day」を聞いていた。

 距離感に変化が生じているのか、もう少し掘り下げてゆきたい気持ちがある。
 この続きは次回に。

書籍:「デヴィッド・ボウイ: 変幻するカルト・スター:(野中モモ 2017ちくま新書)」

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いつか読んでおきたい本 [その他の本]

 連日の暑さでぐったりしているが、気候以外にも今年の夏は例年とは違ったものになってる。毎年この時期はクラシックコンサートも少なく、1か月半ほど音楽から離れ、旅行や他のイベントなど普段できないことをしているが、今年は外出する意欲も減衰気味で、休日の外出はせいぜい日中暑さしのぎにコーヒー屋で読書程度である。
 音楽聞く時間が減ったこともあり、今年はいつも以上に本を読んでいる気がする。さらに、ここ数か月にわたるコンサートの中止延期で時間を持て余し気味にもなり、その埋め合わせ的に読書時間が増えているようだ。

 そんな中先日、とあるLINEのやり取りで読書の話題になり、いつかは読んでおきたい本、という内容が出てきた。これをみて、ふと自分にとってどの本だろうかと思ったが、あれこれ考えてると意外に奥が深そうなので、じっくり検討してみることにした。通勤途中に、夜中目を覚ました時に、仕事の昼食後に、やる気の失せた仕事中にも、考えながら、いくつかの候補が出てきた。しかしリストアップしてうちに、読みたいなら今読めばいいじゃないか、という気持ちももたげてき、結局のところ、簡単に手が付けにくく、ある程度の分量があるという前提条件があるようだ。

 ということでまず浮かんで来たのが、司馬遼太郎とか池波正太郎などの時代小説もの。この中で、真っ先に思いついたのは池波正太郎「真田太平記」。文庫本で12巻、かなりの時間を要するが、これは数年前上田に旅行に行った際、池波正太郎真田太平記館に立ち寄った時に、この作品は定年後にでも読もう、と思ったことがあったので、リストアップ。

 こうして最初は作品単位で考えていたが、一方作家単位というとらえ方もある。ある作家の作品を集中的に読むということ。しかしながら全作品となる範囲が広すぎ、また自分の性格からすると、すべて網羅したいという気持ちは薄いので、ここはある作家の主要作品というふうにして絞り込んだ。

・ミラン・クンデラの作品・・・チェコスロバキアの作家で、30代頃いくつか読んだ。このブログでも、有名な「存在の耐えられない軽さ」のレビューは書いたこともあるが、時間を経てまた読み直したく、特に「不滅」は必ず再読したい。
・ドストエフスキー・・・「罪と罰」、「白痴」、そして「カラマーゾフの兄弟」は1ヵ月以上かけ読んだ記憶がある。その後クラシック音楽を聞きながら、次第にショスタコーヴィチやプロコフィエフらロシア作曲家との親和性の高さを実感したこともあり、この作家はもう一度読み直したい。

 さらに海外ミステリーものも10代からよく読んでいたのだが、この中でシリーズものを時系列に読み直したいものがある。特にローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズ。このシリーズ作品は半分以上読んでるが、行き当たりばったりで読んできたのでここは最初から時系列的に全部読んでゆきたい。

 こうした中で、小説ではないがどうしても読んでおきたいという意味では、横山光輝の漫画「三国志」もあげたい。横山光輝のマンガは基本的に好きなのだが、三国志は大変な量なのでまだ手をつけていないから、この作品はどうしても読みたい。

 ということで、いろいろピックアップしたが、最終的に一つに絞り込むとすれば、藤沢周平の主要作品をできるだけ読みたい、ということになるだろう。もちろん全作品と言いたいところだが、これは量的に難しいので主要作品とした。とはいえ、これまでも20冊以上は読んだはずなので、もしかすると全作品とかかげるのも可能か。

 今回いろいろ考えてみたが、なかなか楽しかった。こうしたリストは時間が経過すると変化してくのだろう。さてここに挙げたリスト、いつから着手するかな。

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消えた女/藤沢周平 [その他の本]

 近年の読書傾向を振り返ってみると、ジャンルに絞り込むことなく脈絡なく読む、という感じになるだろう。最近出版された小説、人生エッセイ、音楽関係、ノウハウ本、古典作品、ミステリー、自伝、歴史もの等々、適当に読み進めているが、時折無償に時代小説を読みたくなる時がある。ある時期集中的に読むというのではなく、ある程度ブランクがあると急に読みたくなることが多い。

 自分との関わりにおいて、時代小説というのは30代くらいまで全くの対象外だったが、40代あたりから読み出し始めた、後発ジャンルである。振り返ってみると、ちょうあの頃、時代の変化をすごく感じ、次々に起こる事件、技術革新、そしてそれまでは現実に起こるなど想像すらできなかった出来事が現実的に発生し始めたことが、影響したと思う。
 それまでは、小説や物語を読むというのは、ある種の“起こるはずのない”という前提があったからこそ虚構世界としての小説に入り込めた部分が少なからずあった気がする。現実世界から束の間離れ、一時虚構世界の中を彷徨うことで、気晴らしや楽しみがそこにあった。しかし、起こるなど想像すらできなかった事が、実際現実に起こる事象を何度か目の当たりにしてゆくうちに、それまで保ってきた小説や物語のフィクション性が揺らぎ始めた。想像の範疇に留まってきた出来事が、現在の時間軸に現れ、やがて徐々に読書自体の楽しみが薄れていった気がした。

 そうした中、読書も変化し、それまで手をつけなかった分野に目を向け始め、時代小説というジャンルも読み始めてみた。読んでみると、時代設定は何百年も前になっていることで、非常に新鮮な感じを受けた。車や飛行機もない、携帯電話やネット環境もなければ、冷房もない。交通手段や通信手段は限定され、また現在の様々な過剰なサービスや利便さは存在しない。現実時間から離れ、過去の過ぎ去った時間や時代に遡ってゆくと、逆にそこから想像力が掻き立てられ、結果的に小説世界に没入することができた。それから、時代小説をよく読むようになった。

 特に最初期に読んだのは藤沢周平の小説だった。集中的に読んではいないが、年間1冊くらいのペースで読んでいて、これまで15冊くらいは読んできたと思う。近年他の時代小説作家ものが多くなったのため、読むペースが停滞してたが、先日急に読みたくなった。たぶんここ数か月間の世界の変化が大きすぎ、束の間現実から離れたい気持ちもあったのかもしれない。

 久しぶりに読んだのは「消えた女 彫師伊之助捕物覚え」。実はこの作品一度読んでいたのだが、印象が薄く、ほとんど覚えてなかった。なんで記憶に残らなかったのか不思議で、再読してみたのだが、タイミング的にあったのか、今回読むとこれはいい作品だと思った。
 読む前に解説読むと、主人公のハードボイルドさへの言及があったので、そのことを意識して読んだのだが、確かにこれはハードボイルド小説の要素を含んでいる。岡っ引をやめて、彫師として働く中、失踪した娘探しを頼まれた伊之助の探索物語という感じだが、時代背景は古い時代設定にもかかわらず、主人公を動かす信条のようなものがあり、ストイックな行動、頑固な意地など、随所に感じ取れ、海外のハードボイルド小説と遜色ないぐらいの作品と思えた。藤沢周平作品には確かに、主人公の独自の生き様のようなものが色濃くでてくると思うが、こういう形の作品はなかなか新鮮で、面白かった。

 この彫師伊之助捕物覚えはシリーズもので、計3冊あるようなので、残り2冊も読んでみよう。
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小池昌代「弦と響」 [その他の本]

 ある弦楽四重奏団のラストコンサートを、4名の当事者とその関連者たち、それぞれの目線で物語る作品。弦楽四重奏団というユニットを扱いつつも、直接的には音楽自体の描写はかなり限定的である。
 あくまで、演奏者と音楽に係わった時間、そしてその周辺に漂っていた風景を回想しながら、ラストコンサート当日を迎えるそれぞれの固有の瞬間がつづられてゆく。さらにそのカルテットに直接的もしくは間接的に関連した人らが、各々の時間の中で、この最後のコンサートという特殊な、一回限りの場を向かえる。
 それぞれの思いは交錯しないけど、ホールという空間で音楽を共に聴くという状況を共有すると、まじりあうことのない個人が触れ合う時間が生まれれてくる。しかし、それは音楽が終わるとともに、余韻を残しつつ静かに消えゆき、再び各々の時間に戻ってゆく。
 
 今回以前読んでから読み直してみたのだが、数年前に初めて読んだとき、淡い感触があった。それは、もしかすると、タイトルから音楽や演奏そのものの描写した部分が多くでてくるだろう、と無意識に思い込んでいたことで、ズレのようなものがあったからかもしれない。またその前に初めて読んだ小池さんの小説(「タタド」、「ことば汁」、「怪訝山」など)の濃厚な言葉が醸し出す強いイメージが残ってたせいかもしれない。

 でも今回読み直してみると、直接的に音楽描写がないのに、やがて開催される音楽に向かって、予告編のように、背景で音楽がうっすらと通奏低音のように響き続けてるようだった。一つの特別なコンサートにむかって、それぞれの時間を振り返り、回想しながら、でも同時に日常生活も現実にある。そうした中、ラストコンサートという一つの終焉の場に集まった各人が個別の時間を抱えながら、まるで持ち寄ってきたかのように、それらが自然とつづれ織りなす。前回読んだ時より、多層的に、まるで弦楽四重奏曲を聴くように読んだ気がする。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、それぞれの音に耳を傾けながら、4人が奏でる全体音を聴くように。

 小説の中では、最後の演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲が演奏され、前半に第8番「ラズモフスキー第2番」と第11番「セリオーソ」そして後半は第14番という構成である。
 さて、自分だったら、どういう構成を描くだろうか?
 ラズモフスキーから1曲は入れたい。後期作品からはどう選ぶか、ここは難しいけど、今だったら、15番と16番の2曲をセットで組み入れたい気がする。まて、冒頭に初期の作品番号18番の6曲から冒頭に一曲入れるのもよいか。となると4曲になってしまい、これだと多すぎる。もう一度考え直すか・・・などと想像するのもまた面白い。

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小説:小池昌代「弦と響」(2011年)
このブログを書いてるときに聞いたCD:ベートーヴェン弦楽四重奏曲第15番・バリリ四重奏団(1956年)

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最近の読書 [その他の本]

 図書館で本を借りて通勤時間中に読んでるが、最近どうも完読できないことが多い。時間切れの時もあるが、集中できないことも多い。さらに完読することに対し、こだわらなくなってるせいもあるかもしれない。

 以前は一度読み始めたら最後まで読むことが多かった。途中まで読んでみたものの、どうも興味が膨らまない、面白みがあまり感じられない、なんかペースが上がらずしんどいな、という局面に遭遇うすることはある。しかし、そこを乗り越えたら、後半から実は面白い展開が待ち受けてるのかもしれないと思い読み続けてゆく。その結果、後半から面白くなった、ラストにどんでん返しがあったこともあるが、最後まで面白さを体感できないまま未消化の状態で着地することもある。

 ここまで時間かけて読んできたのだから、続けようと思う反面、ここで撤退もありかなと思うものの、結局まだ先がわからないという可能性に賭けようと判断するからだろう。

 とはいえ、最近途中でやめることが多くなった。また部分読みというのか、最初から興味ある箇所だけ部分的に読んでゆき、ある程度読んだらそれでよし、とすることが多くなった。だから最近は完読ありき、ではなくそこそこ読めればOK、程度に構えてる。

 ふりかえってみると、完結することに対し、元々意識が低いこともある。このブログでも扱ってるポール・オースターという作家も全作品は読んでない。20代のころかなり意識していたボブ・ディランも全アルバム聞こうとは最初から思ってなかった。ロックなどの気になるミュージシャンを知りたくなって、聞いてみるが、ある程度進んでゆくと、どこかで止めてしまう。全部聞いてしまうと、未知の部分がなくなってしまうから、残しておきたいという気持ちが常にあったと思う。

 クラシック音楽に移行してから、特定の作曲家作品や特定の指揮者演奏を網羅するのは、現実的にほほ困難ということもあったが、それでもブルックナーの交響曲はまだ全部聞いてないし(第1番とゼロ番)、ショスタコーヴィチも第2番、3番他数曲はいまだ未着手のままである。また、先日聞いたブルックナーの交響曲第9番についても、未完の3楽章までとはいえ、全体における物足りなさや、過不足感をほとんど感じることはあまりなかった。

 こうした背景が下地にあったことで、最近読書においても途中で読み止めすることが多くなっているのだろうか。それとも仕事や何だかんだで集中できないせいか。いや単に最近ついに購入へ踏み切ったスマホと格闘しているせいかもしれない。
 スマホか。そうだ、これが有力な原因なのではないか・・・そんな気がしてきた。



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「西洋音楽史」(岡田暁生著) [その他の本]

 クラシック聴きはじめの頃、関連書籍を結構買っていた時期があった。曲目解説、名盤ガイドブック、作曲家の生涯、オペラ解説、対訳など相当買いこんでいたものだった。また同時に図書館からも関連本を借りてたので、かなり書籍を読んだ時期があった。
 しかしながら、近年必要な情報はネットから入手できることもあり、クラシック関連本を買うことは少なくなった。また図書館から借りることも減り、最近、図書館で借りてくる本といえば、小説、実用書、エッセイなどが中心になっている。

 一時期買い込んだ書籍だが、最近減らそうと思い、必要なものとそうでないものの選別をしている。買ってからもう何年も手に取ってない本もあるので、この先も手元に残すべきなのか、再読してから判断しようと思い、ここ数か月は再読月間を続けている。

 先週は「西洋音楽史」(岡田暁生著)という本を再読していた。読んだ時にまだ音楽体験が乏しかったため、ざっくり読んでしまった箇所があったようだが、今回読み直すと、やはり自分の音楽体験の増加分により、以前より読み込めた感じがした。
 読んでみて、今回感じたのは、普段何気なく聴いてるバロック音楽に対し、新鮮な角度からもう一度眺められる気がしたことである。特に、前半部分の中世音楽~ルネサンスを経てバロック音楽へと向かった流れから、音楽とらえ直すことで、今まで漫然と、無造作に耳にしてきた音楽に対し違った風景が見えてきた気がする。その音楽背景を意識的しながら見つめることで、今まで単調で、すぐ飽きてしまうことが多かった響きに対し、新鮮味が加わったことようである。

 読後、以前購入したバロック音楽ボックスCDから、全く聞いてなかった作品をひっぱりだす。そうして今回ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)を初めて聴いた。そしてまたジョヴァンニ・ガブリエーリ(c.1555-1612)も聴いてみた。このうち、ガブリエーリという人の作品は、今繰り返し耳にしている。
  
 もちろん、こうした音楽風景は何度か耳にしてきたが、今まではどうもすぐ飽きてしまうことが多かった。聴いてても集中力が逃げてゆくタイプの響きだった。しかし、こうして音楽史背景を意識して耳にすると、なんと新鮮に響くことだろうか。過剰なものを脇に置き、ただ当時の時代を思いつつ、響きに耳を傾ける。そうした時間帯が自分の周辺で自然と流れてゆき、心地よさとは違った、何というのか、浮遊した、ふわっと漂うような流れに包まれていた。

 先週はそんな時間があって、異なる時間の流れというものを感じられた。
 仕事の忙しさで、気分転換がうまくゆかなかない中、こうした時間の異なる流れに身を置くことで、多少でも変化がつけられただろうか。とにかく、今バロック音楽あたりの流れが、うまく取り入れられてるような気がするのだ。

CD:Music for San Rocco /Paul McCreesh, Gabrieli Consort & Players (1996)
本:「西洋音楽史」(中公新書 岡田暁生著)

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「ベンジャミン・ブリテン」/D・マシューズ著 [その他の本]

 結局、先月は落ち着かないまま過ぎていった。それでも、ようやく先週は落ち着いた日が数日間あって、その間、ちょうど図書館から借りてきたブリテンに関する本を読んでみた。

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 ブリテン (1913~1976)の音楽作品については、あまり接してきていないのだが、2012年「ピーター・グライムズ」の印象が未だに残っている。それまで観たオペラ作品とは異なる基調の作品で、戸惑いの中観ていったのだが、予想していなかった何かが琴線に触れたのかもしれない。その音楽は、自分の中に強く横たわっている不安さや外界との距離関係といったところの周辺に響きかけてきたような気がした。だからなのか、「ピーター・グライムズ」の印象は他のオペラ作品より、想像以上に深く、そして長く残っているような気がする。

 とはいっても、この作品以外に聴いたものは少なく、せいぜい「シンフォニア・ダ・レクイエム」、とか「4つの海の間奏曲」くらい。さらに以前、独唱とオーケストラのために書かれた「夜想曲」という曲を聴いたが、これがピンとこなかった。気分的に乗らなかっただけのことだったのかもしれないが、この事はどこかでひっかかっていたのだろう。そんなこともあって、ブリテンの生涯について書かれた本を見つけたとき、読んでみたいと思った。

 さて、読んでみると、ピーター・ピアーズとの長きにわたるパートナー関係、同性愛者というマイノリティとして生きたこと、オールドバラでの生活など、こうした側面を知ることで、この作曲家の音楽に歩みよることができるような気がする。

 あまり気がつかなかったが、全作品を見渡すと、オペラ作品がけっこう多いことに気がつく。「ピーター・グライムズ」は1945年、32歳の作品でかなり早い時期に書かれたが、「ビリー・バッド」、「ねじの回転」、そして晩年の「ベニスに死す」など、いつか観てみたいと思った。とはいえなかなか上演機会がなさそうなので、DVDでも探して観てみるか。
 
 また、管弦楽作品や合唱作品、声楽なども多いようだ。途中アメリカに渡ったことがあることを読んで、そういえば、作品に「An American Overture」とか「Canadian Carnival」というタイトル作品があったのは、このあたりの背景なのかと思った。

 読書時間は、いつもの如く通勤電車の行き帰りの時間を使って読んだが、その数日間は、帰宅後に以前買ったまま棚に眠らせたままのCDの埃を払い、聴いていた。以前うまく聴けなかった「夜想曲」と同じタイプの曲(「イリュミナシオン」)を聴いてみたのだが、あら不思議、今回はすっと入ってくる。

 さらに、これまた以前に購入しながら断片的にしか耳にしなかった弦楽四重奏曲集CDにも同様な効果が現われた。3曲の弦楽四重奏は第1番は1941年と若い時期に書かれたのに対し、最後の第3番は死の前年1975年に作曲されており、こうした背景を知って聴くと、今までは漠然としていたものが、具体的なイメージが周辺に付与され、それが聴くことの中でうまく作用したような気がした。

 こうして本を読みながら、作曲家の生涯を辿り、そして音楽も聴いてみることは、とてもいいものだと、あらためて思った。とはいえ、落ちついた日々は長く続かず、また昨日悩ましいことが経ち現れ、堂々巡りの考えに陥っしまったのだが・・・。
 とにもかくにも、この数日間はブリテン音楽一色に染まっていたのは確かなことで、ひさしぶりに音楽の中に浸かっていた気がした。


本:「ベンジャミン・ブリテン」/デイヴィッド・マシューズ著、 中村ひろ子 訳


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ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」 [その他の本]

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昨日は寒さが強まったが、今朝はさらに冷え込み、起床すると外は氷の張った白さがみえていた。季節は冬となり、12月に入り、今年も残すところ1ヵ月程度。コンサートも来週で今年度分も終了となり、これから一ヶ月くらいは少し読書に時間を傾けてゆこうかと考えている。

 読書というと、元来ほとんど再読はしてこなかったが、近年少しずつ再読を実施しだしてきた。再読してみると、だいぶ前に読んだとはいえ、ほとんど内容を忘却してしまったものも少なくなく、なんでこんなに覚えていないのだろうか、と思いつつ読み直すこともある。

 そんな中、昨日まで再読していたのが、ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」。読書記録を遡ってみると、読んだのは2002年となっており、文庫本化されて購入したものを読んでいる。通常は一度読んだ文庫本は、古本で売却してしまい手元に残さないのだが、数冊だけ残していたものもあって、この本がそのうちの一冊だった。一度読んだ後、いつかもう一度読んでみたいと思い、手元に置いたのだろう。

 久しぶりにクンデラの小説を読んでみたが、物語の縦糸のみならず、歴史に対する記述、思索的・哲学的な文書、などが顔をだして、物語の進行とともにからまってゆく。映画化もされているが、やはり物語から何度もわき道にそれながら、戻ってゆく複合的な視点のある小説の面白さ、といったものを感じた。突き動かされてゆく人間の根源的な情動、繰り返されるモチーフやひょこり顔をだす猥雑さ、尖った部分と凡庸さや退屈さなど、が交わりつつ物語られてゆくようだった。

 この小説の中で、ひとつのキーワードとして何度も登場してくるのが、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番第4楽章の表題の話。直接的な音楽というより、“そうでなければならないのか・・・”という、謎めいた言葉が、小説の中で何度も登場してくる。今回再読して、この曲が小説に出てきたこと事態をすっかり忘れてしまっていたが、文庫本にはしっかり付箋をつけていた。この頃はまだクラシック音楽へのかすかな興味が現われ始めた時期で、まだまだ本格化していなかったものの、こうした付箋の貼り方や、その後まもなく購入したベートーヴェンの弦楽四重奏曲のCDのことなど考えてみると、興味関心が新たな方角に向かっていく初期段階だったのだろう。

 そんなふうにこの一週間はミラン・クンデラの小説を再読したが、先日古本で探していた、もう一度読んでみたいミステリー小説をみつけ、次はそっちを読んでみようかというところ。20年以上も前で、細かなあらすじ覚えていないが、とにかく驚いた、という記憶が残っている。さて、再読してみたら今度はどんな発見があるのだろうか。

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