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第5楽章(9) R.E.M.の音楽の変化(続き) [メインテーマ]

 80年代半ばに大きな影響を受けたR.E.M.の音楽ではあったが、その後サウンドは変化してゆく。80年代後半のレーベル移籍前後を境に、初期のとらえどころのなかった曖昧さが徐々に消え、輪郭のはっきりしたものへと変わり始めてきた。89年発表のアルバム「Green」に対し、戸惑った感触はなかなか払拭できなかった。確かにそこにはまぎれもないR.E.M.のサウンドは感じられたのだが、いきなり日陰から明るい場所に飛び出してきたというのか、ウェットさからドライな感覚に比重が移行してきたというのか、その変化に追いついてゆけず、違和感が残った。とはいえ、振り返ってみると、このあたりのアルバム(87年の「Document」から91年の「Out of Time」)は一番よく聞いたのかもしれない。

 この時期、どこか自分自身の当時の在り方が彼らの音楽への向き合い方にも重なったのかもしれない。大学を卒業し、外の社会と向き合ったとき、その世界を受け入れられなかった自分の殻の固さ。仕事、会社という世界の不文律の取り決めやルールに理不尽さを感じ、自分の世界と仕事を完全に分断させることで、なんとか自己を保とうとしていた時期。自分を変えようという姿勢もなく、対峙し続けてきた時期。そうしたことが、どこかR.E.M.の変化に戸惑った理由の一つだったのかもしれない。
 
 それでも、彼らの音楽はリアルタイムに聞き続けてはいた。だいぶ後になって(2003年に2枚組のベスト盤が発表された時)聞き直してみたのだが、改めて個性的な曲や印象に残ったものが多くあり、作品の質の高さを実感したことがあった。だから、ここでいくつかの印象に残った曲を取り上げてゆこうとしたら、結構な曲が候補に上がったのだが、2曲だけピックアップした。

 その一つが96年発表のアルバムの一曲「E-Bow the Letter」。2年前に発表されたアルバム「Monster」をうまく聞けなかったこともあり、彼らへの関心が低下していた時期、ふとラジオでこの曲を耳にした。冒頭のギターの音を耳にした時、何かが惹きつけた。言葉にできない、当時の自分の心の在り方、気分、視線の方向、そうしたものがこの曲と重なったように。
 この曲を含むアルバムも、全体を覆う空気はどこか重たいのだが、そうしたトーンを広い空間へと放つように外に向かってゆく気配も感じた。あの頃、周囲がよく見えなくなり、どうしようもなさを抱えていた時期の自分心象風景に、何度かこの曲が流れていた。

 そしてもう一曲は2001年発表の「Reveal」に収録されている「Imitation of Life」という曲。
この3年前に発表されたアルバム「UP」は一度聞いたものの、やはりメンバーが減ってしまったことで、サウンドが細くなり、浮遊した感じに、こんなに変わってしまったのか、という思いが大きく、繰り返し聞かなかった。それからの数年間もそんな延長上にあったのだが、ある日CD店で見かけた彼らの新作を、何気なく試聴してみた。
 この中の一曲「Imitation of Life」がストレートに心を捉えた。長い付き合いのR.E.M.の曲としてではなく、純粋にメロディーラインの素晴らしい音楽に出会ったという感じだった。一回聞いただけなのに頭の中で何度も繰り返し流れてきた。こんなふうにR.E.M.の音楽を聞いたことはいつ以来だろう、と思いながら、このCDを入手して聞きながら、再び彼らの音楽との係わり合いが戻ってきた。

 そうして、ほとんど聞かなかった前作を再び聞きなおしてみると、いくつかの素晴らしい曲が見つかった。人数が少なくなったことで、サウンドへの工夫を余儀なくされた結果だろうか。柔軟な発想や冒険が生まれ、手詰まりの硬直化しつつあった音楽が、再生し、息を吹き返しつつあるような気がした。このアルバムの延長線上に今回の「Imitation of Life」が生まれたのだろう。そんなことを考えながら、以前は変化を受け入れられなかった自分自身が、その後会社や仕事の中で現実的に対処したり、時に学ぶことも発見し、自分の弱さと向き合いながら、変化していった時期の流れにも重なるものがあったのかもしれない。

 長い間聞いてきたので、いろいろな思いが交錯するし、前回書いた86年の衝撃は確かに個人的なレベルで大きな出来事ではあった。とはいえ、今回この文書を書きながら彼らの作品を聞き直してみると、本当にいい曲や、好きな曲が数多くあった。記憶と結びついた形の曲、何らかの感情を呼び起こす曲、そうした中で、一枚だけアルバムを薦めるとすれば、91年の「Out of Time」を、また一曲だけ薦めるとなるとこれは難しいのだが、やはり上述した「Imitation of Life」という曲を薦めたい。
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第5楽章(8) R.E.M.というバンドの音楽が与えたもの [メインテーマ]

 このブログのみならず、会話の中でも「ロック」という言葉を頻繁に使っているが、人によってイメージするところのものはずいぶん異なるだろう。このイメージ形成は、それまでの音楽体験に依拠してる部分が多いと推測できるが、自分の場合、まず浮かぶのが「AC/DC」のようなストレートなものがあり、最近時々聴く「ZZトップ」などもこのイメージの中核に近い。バンド名を挙げてゆくときりがないが、70年台のブリティッシュロック、パンク周辺もの、いわゆるハードロックものなどもイメージに周辺にある。

 そうした中、R.E.M.というバンドの音楽も自分にとってこの「ロック」という言葉の源泉部に位置している。彼らの作品はリアルタイムでずっと聴いていて、1988年から2011年の解散までワーナーレーベルで作品発表しているが、特に影響を受けたのはその前の数年間、インディーレーベルの「I.R.S.」時代のもの。さらに絞り込めば、1984年から、1986年までの数作。そしてもっと、絞り込んでゆけば、1986年発表のアルバム冒頭曲に帰着する。人生の中で、10曲を挙げるとすれば、今現在の基準でも必ずランクインさせるのが、この冒頭曲である「Begin The Begin」である。

 R.E.M.の音楽に出会ったのは、ラジオ番組から流れてきた曲を耳にしたことだった。それまで聞いてきた音楽と何か空気感が違ったような音楽というのか、異なった手触り感がそこにあった。
 たいていの音楽はそれまで聞いてきたなんらかの範疇、例えば「これはブリティッシュロック」、「これはウエストコーストもの」「これはパンクポップス系」という具合に、ある程度分類可能な範疇に括りこめたのだが、REMの音楽の感触は、どこにも帰属させることのできないものだった。
 今まで聞いてきた灰色の空の重さに似た英国産音楽や、爽やかで抜けるような西海岸の米国音楽とも異なった音。そしてそれは自分のとても近くにやってきた。はじめて聞いた新鮮な音に、当時の自分の求めた自分像が重なっていったような気がした。

 ラジオで聞いたのは1984年の作品「Reckoning」からの数曲だった。
 どこか突き放したような距離感、遠くから見てるような感じもある。しかし既存のロックのように、性急さや破壊的さからではなく、また怒りや抑圧の発散というものとも遠かった。むしろ、自分たちでもコントロールできない部分をそのまま音楽にしたような感じがあった。
 矛盾した要素、例えば、沈み込むような重さと浮き上がるような軽さのイメージ、が同居している気がした。彼らの音楽は聞くもののイメージを固定させることなく、しかしながら音の感触はしっかりと刻み込まれるそんな不思議な音楽であった。
 聞き終わったあと、灰色のあいまいな空気に包まれた何かが、残っている、そんな音楽といえばいいだろうか。
ラフで、手を加えないまま出てきた音楽といえばよいのか。そこには、エネルギーを一度内側にため込んでから、それらが流れゆくままに放逐したような、ある種のぞんざいさがあった。

 初期の彼らの音楽的特長を説明するのは結構難しいが、曲の色彩を決定しているP.バックのギターの音色の多様さだろう。重く、時に軽やかに流れ、しかし攻撃的にもなり、投げやりに、シンプルに、翳りと静寂さを含みつつ、楽しみながら、そして美しく弾かれるそのギターの音色。そこにこれまたなんとも言いがたいM.スタイプのボーカルが伴走する。初期はくぐもった感じ、ぶっきらぼうで、淡々と重く感情を表面に出さないかのような歌い方をしたりしているのに、不思議な感情のニュアンスをそこに感じ取ることができる声。そうした個性に魅力的なメロディーと独特の浮遊感が加わった、そんな音である。

 そして前述した1986年発表のアルバム「Lifes rich pageant」を耳にした。当時学生だったことで、新譜のレコードはあまり買えなかったが、そんな中で久しぶりに手にした新譜だった。買ってから、期待しながら、わくわくしながら聞いた時の感覚は、今でもそのまま鮮明に残っている。

 大きな期待とともにレコードの針を落とし、冒頭曲「Begin The Begin」のイントロの数秒のギターとそれに続く音が流れた瞬間、背筋にざわっとした感覚が走った。一気に緊張感が漲り、新鮮な衝撃を自分に与える。今まで聞いてきた音楽とは全然異質で、その独自性とその時の自分の求めていたもの・・・シャープで、重く、そして停滞しない流れがあるような感じのもの・・・にぴたりとはまった。
 これだ、と直感的に感じた。今まで既存の音楽の中から得られなかったものが、こうして現実の音として立ち現われてきたの気がした。感情の襞に、ざらざらした感触がついてくる・・・。

 あの時、初めて耳にしてから、もう30年近くも経過してしまった。
 しかし、当時の記憶と音楽自体は今現在も全く色褪せてない。今まで何ども聴いてきたが、そのたびに衝撃の余波は感じられ、昨日も何年振りかに聴いてみたが、全く古びていなかった。
 やはり、この曲の硬質なサウンドは自分の「ロック」というイメージを凝縮した曲なのだ、と改めて実感させられた。
                                                        (続く)

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第5楽章(7) プログレ・イエス「危機」 [メインテーマ]

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 クラシック音楽とロックの橋渡し的なものとして、思い浮かぶとすれば、やはりプログレッシブ・ロックだろう。しかしながら、クラシック音楽を聴くきっかけとなったのが、このプログレからだった・・・ということはなく、むしろあまり縁のないジャンルだった。もちろん代表的な作品(例えば、キングクリムゾンのファースト、ピンク・フロイドの「狂気」「ザ・ウォール」、イエス「危機」、EL&P「展覧会の絵」など・・・)は聴いたが、それ以上深入りすることはなかった。

 ところが、クラシック音楽に少し興味が芽生えだした前後あたりから、どこかプログレ音楽が頭の片隅に意識されてきた。今まで聞いてきたロックという音楽範疇に、オーケストラやストリングスを入れたロックものがあるとすれば、やはりプログレではないだろうか、そんな考えもあったので、あまり聴いてこなかったプログレ的なものに関心が向かっていった。ジェネシス、ピンク・フロイドなどを意識的に聴き始めたが、中でも、イエスが最も大きな関心を向けたバンドだった。

 なぜイエスだったのかといえば、やはり最初に聴いた「危機」というアルバムの完成度の高さからだったろう。上述の乏しかったプログレ体験の中で、壮大なスケール感で展開してゆく「危機」は心底圧倒されていた。ただ、ここからイエスの音楽に突っ走ってゆかなかった理由として、当時リアルタイムで流れていたイエスのポップなヒット曲、「ロンリー・ハート」との大きなギャップだった。関心はあったが、戸惑いもあったので、そこで止まってしまった、という感じ。

 クラシック音楽に触れたことで、プログレ的な音楽への関心が高まっていた頃、ちょうど仕事上で非常に苦しい時期があった。部門の中で退職が続き、かなり思い悩んで時期、ふと、そういえば、ロックバンドの中に頻繁なメンバーチェンジを繰り返しながら、形態を維持してきたバンドがあるな、と思った。バンドという形態を維持継続してゆくための、そのマネージメント力とは何だったのだろう、そんなことを考えたとき、イエスのことを思い出した。
 それで改めて調べてみると、すごい人の出入りである。バンドを脱退したのに、再加入したとかもある。そんな人事異動を経ながら、どうやって現在まできたのか、それが知りたくなった。あの「ロンリー・ハート」と傑作アルバム「危機」の間に何があったのか、ここはぜひ検証してみよう、そうして、イエスのアルバムを少しずつ買いはじめていった。

 そうして聴いてゆくと、時期により随分音楽は変化していったことがよくわかる。初期から「危機」までの時期、メンバーチェンジを重ね、あの「ロンリー・ハート」が生まれ、さらにメンバーチェンジを繰り返しながらも、ずっとバンドを持続させている。新加入メンバーがもたらす変化を受け入れながら、変わらないイエス色というのが根底にあった。それは例えば、ジョン・アンダーソンの声やスティーブ・ハウのギターであり、クリス・スクワイアのベースなのかもしれない。固定させることのマンネリがもたらす危機、それに対し一時的には混乱しながら、変化を選択してゆくことで、バンドに刺激を与え、活性化し続けたのかもしれない。

 イエスのアルバムは、やはり1972年に発表された「危機」が代表作だと思うが、彼らのバンドとしての凄さを感じた作品として、1980年に発表された「ドラマ」を個人的には特にあげたい。このアルバム、メインボーカルとキーボード奏者が脱退、急遽他のバンドから2名のメンバーを補填して作られたという、かなり過渡期的な作品かと思って聴いてみた。しかし、そうして混乱にも関わらず、作品のクオリティーが非常に高い。確かにそれまでのイエスの音楽とは変化は大きいのだが、ある種のバンドの「危機」が何か新たなエネルギーを生み出した感触を受ける。

 この「ドラマ」の数年後、さらにメンバーチェンジによる効果によって、あの「ロンリー・ハート」が出来上がったのかと思うと、バンドの変遷の中における「ドラマ」というアルバムは結構重要な位置にあったように思えてくる。

 こうして多くの人が出入りしながらバンドを維持してきた、イエスの音楽には、変化したもの、そして変わらない固有の音が入り混じっていて、そこに聴き続けてゆくことの醍醐味を感じられる。こうしてプログレもの聴いてゆくと、やはりクラシック音楽との相性は結構あるのだろう。


 なお、オーケストラ大々的に取り入れた、イエスのアルバムとしては、2001年発表の「マグニフィケーション」があるが、このあとのツアーを収録したDVD「シンフォニック・ライブ」を観ると、もちろん視覚的にも楽しめるが、オーケストラをバックにしてもイエスの音楽が非常に高い構築性を有していることが非常によくわかる映像ものとなっている。

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第5楽章(6) ジャクソン・ブラウン「バリケード・オブ・ヘブン」 [メインテーマ]

 ロックものを聴く中で、もちろんバンドもの中心となったが、ソロ・アーティストへの比重も小さくなかった。特に意識したわけではなかったが、バンド独立後にソロ活動したケースや、シンガーソングライターなどへの関心は高かったようだ。

 聴き始めの時期に重要だったシンガーソングライターのひとりが、ジャクソン・ブラウンだった。最初に聴いたのは中古レコードで入手し た、4枚目の「プリテンダー」だったか。ロックミュージックの快活さやノリのよさとは異なる音楽だったが、語るような、ひたむきな言葉が当時高校生だった自分を惹きつけた。特にタイトル曲「プリテンダー」の歌詞にはおそらく影響を受けている。そして3枚目「レイト・フォー・ザ・スカイ」は当時相当聴いたアルバムの一枚で、10代の頃の記憶の背景に残っているアルバムである。

 いろいろなことを想い悩んだ時期、深夜このアルバムをヘッドフォンで何度聴いたろうか。冒頭の「レイト・フォー・ザ・スカイ」~「ファウンテン・オブ・ソロー」への流れは、その頃の自分をとても反映してた曲だと思う。
 しかし、6枚目の「ホールド・アウト」の後、あまり聴かなくなってしまった。20代のエネルギーに溢れた時期、彼の作品は対象から後退し、アルバムは時々発表されていたものの、15年近く忘れ去ってしまった。

 ところがある時、中古CD店で、1996年に発表された「ルッキング・イースト」を見かけ、久しぶりに聴いてみた。これがよかった。幾分の懐かしさという動機、慣れ親しんだ声のトーンを久しぶり耳にしたこともあったが、それ以上に現在進行形のリアルな歌として、活き活きとしていたことに驚いた。疾走してきた20代が過ぎてゆき、自分の中での変化、違和感、躊躇、戸惑い、そうしたものに直面していた頃だったからなのか、このアルバムに入っていた「バリケード・オブ・ヘブン」という曲を聴いた時、いろいろな思いが駆け巡った。自分の中で変わったもの、そして変わらないもの。過去の時間と現在地点が、延長線でかみあい、感情に働きかけた。それ以来、この曲は彼の曲中もっとも好きな曲であり、そして自分の中の重要な一曲として今現在も変わることなく位置しているのである。

 その後、発表される新作や旧作も少しずつ聴くようになったが、2005年に発表された「ソロ・アコースティック 第1集」というライブ盤を数年前に聴いた。1998年、初めて彼のコンサートを聴きにいって、いろいろな思いと供に素晴らしいライブを体験したが、ソロ・アコースティック という形式で追体験することで、さらに近しさを感じるようになった。
 ピアノ・ギター一本で語りかけるように歌うその親密さが、とにかくリアルである。さらに、曲間で観客に対する長い語りもそのまま収録しており、まさに等身大の彼の姿を生々しく感じられる。冒頭「バリケード・オブ・ヘブン」でぐっとくるが、全体的には70年代作品を中心に構成、ただし第2集の曲を見るとこちらは80~90代の作品中心となっている。(この第2集はまだ聞いてないので、近いうち聞きたいものだ)

 バンドもののライブ盤と同じように、こうしたソロ・アーティストやシンガーソングライターのライブ盤を聴いて印象が強化されたり、変わったケースは少なくない。例えば、ヴァン・モリソンのライブ盤。何枚か出ているが、彼の音楽の素晴らしさはまさにライブ盤を聴かないとどうにもならないだろう。

 ボズ・スキャッグスが2004年に出したライブ盤も忘れられない。それまでAOR、という80年代のメローな音楽の象徴、どこか大人の音楽というラベルを勝手につけてしまっていたが、このライブを聴いてから印象はすっかり変わってしまった。80年代の耳にしたことあるヒット曲は、重心の低い、どっしりしたサウンドに支えらえられ、じっくりと聴き応えのあるものとなって再現されている。

 そしてジェームス・テイラー(JT)の1993年のライブ。それまで繊細でソフトな声質のシンガーソングライターというイメージが強かったが、このライブを境に印象は大き変化した。バンドの繰り出す音楽は自然発生的な躍動感を生みだす。そして数名のコーラスが至る所でクローズアップされ、声による音楽の広がりを作り出す。このコーラスと音楽が見事に溶け合い、新鮮な光をもたらすのだ。そうした中、ソフトな声質だけと思っていたJTが「Slap Leather」や「Steamroller Blues」で見せたR&B色ある歌に驚かされる。
 このライブ盤におけるJTの音楽の暖かさと深み、そしてラストのJTとコーラスだけで歌い上げた「That Lonesome Road」のなんという静謐で豊かであることか。このライブをきっかけに、JTのアルバムは随分と買い集めるようになった。

 結局こういった多くのライブ盤によって、音楽が近くに感じられるようになった。それが自分の音楽を聴く土台ともなっているのだろう。

Looking East / Jackson Browne (1996)
Jackson Browne Solo Acoustic Vol.1 / Jackson Browne (2005)
It's Too Late to Stop Now / Van Morrison (1974)
Greatest Hits Live / Boz Scaggs (2004)
(live) / James Taylor (1993)

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第5楽章(5) ライブ盤 [メインテーマ]

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 ロックものの印象深いアルバム作品を羅列してゆくと、ひとつの傾向が見えてくる。どうも、ライブ盤が多いようだ、ということ。確かに、スタジオ録音されたアルバムはピンとこなかったのに、ライブ盤を聴くと焦点が合った、ということが結構あった。例えばエリック・クラプトン。熱心にフォローしたギタリストとはいえないが、スタジオ作品ではどこかもやもやとしたものが残ってしまうのだが、ライブアルバムではギターが自由に伸びやに駆け回る。その結果、彼の好みの作品をあげてみると、「ジャスト・ワン・ナイト」、「エリック・クラプトン・ライブ」、「24ナイツ」、と全てライブ盤になってしまう。また、ザ・フーというバンドもあまり聴いたとはいえないが、唯一大好きだったのは「ライブ・アット・リーズ」となる。

 大学時代には、ブルーズ・スプリングスティーンの「ザ・ライブ」を何度か聴いた。レコードにして、5枚組みライブ盤を年末のこの時期に一気に聴いた。今でこそ、ワーグナーのオペラなどで、長時間聴くことは特別なことでもなくなったが、当時としては、あれだけ長時間レコードを聴きとおすというのは、個人的な一種の年末イベントだった。1975年から1985年までの集大成的作品だが、生々しい音楽が迫ってきて、どこかで止めることができない、そんな音楽。スプリングスティーンは「明日なき暴走」に対する思い入れは相当強いが、やはりライブ盤は別格である。

 時代をさかのぼり、高校生時代では、当時クラスの人から薦められ、借りて聴いたキッスのライブアルバムが記憶に残る。「キッス・ライヴ」(邦題タイトル:地獄の狂獣) 、「キッス・アライブⅡ」は当時相当聴いた。「キッス・ライヴ」はもう何十年も耳にしてないが、曲目見ただけでありありと思いだしてくる。(一発目の「デュース」そして「ストラッター」・・・そして最後の方は「ロックンロール・オールナイト」! )
 このキッスの音楽などは、クラシック音楽と随分かけ離れた世界のように思えるかもしれないが、実はそうともいえない。数年前のクラシック音楽没頭中の時期に、キッスのDVDを購入しているのだ。この作品「アライブⅣ~地獄の交響曲」というタイトルの通り、メルボルン・シンフォニー・オーケストラをバックに4人が演奏するというもの。

 とにかくこれが素晴らしい。キッスの作品はメロディーがはっきりしており、オーケストラをバックにしても崩れなく、違和感もほとんどなかった。DVDでは、このライブの準備段階やリハーサルまでのドキュメントも含まれているので、より一層ライブが楽しめるようになっている。
 そして、なんといっても見所の一つが、オーケストラの気合の入ったメーキャップ。指揮者、楽団全員がキッスのメーキャップ状態で演奏することで、単に後方で音楽サポートに止まるのでなく、ライブパフォーマンスになっている。キッスのライブショーがオーケストラを加え、スケールアップした形で展開、これが興奮せずにいられようか。

 このオーケストラとの共演を見ると、現在のクラシック音楽中心地点と過去の聴いた音楽が合流するような感覚を覚える。そして、ロックの時代からライブ盤への好みが強かったことが、現在のクラシック音楽コンサート中心の感覚形成に繋がっていったのだろう。

 それにしても、書いているうちに、久しぶりに「キッス・ライヴ:地獄の狂獣」聴いてみたくなった・・・。
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第5楽章(4) 「ザ・バンド」のファーストアルバム [メインテーマ]

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 10代から20代の前半あたりまで、早く年をとりたい、と思っていた。自分の実際年齢と感じていることにギャップが大きいような気がして、居心地がよくなかった。つまるところ、早く、大人になってしまいたかった。若さ、という言葉はずっと実感できなかった。

 自分より上の世代がリアルタイムに接した音楽を聴くことで、自分を背伸びさせたかったのだろう。ロックを聴くことで、なんとなく大人になってゆく感じもあっただろうか。だからロックのパワースピード感に溢れる側面より、むしろ、じっくりと聴いて理解したいという感じが結構あった。

 10代の頃、「ザ・バンド」の音楽に衝撃を受けたのは、そんなことも関係したのだと思う。
 時間が停止したような中、心の奥底に横たわっていた情感が、ふわっと浮上してくる。どこかくぐもったような音の感じがあり、スピードやパワーは見つからない。ゆるやかな曲やおおらかな曲が多いが、そんな中はっとさせるような展開がある。
 セカンドアルバムジャケット写真には、年老いた感じで泥臭く、全く若さなど感じられない彼らの姿があるのだが、このアルバムラストに「キング・ハーベスト」という曲が入っている。ぞくぞくするような展開、中間部のギターソロはほんとに短いが、ここでのロビー・ロバートソンのギターには切れ込むようなスリリングさがある。
 腰の据わった、無理のない姿勢から生まれたかのような音楽。どっしりとした落ち着きがある中に、自然発生してくるリズムにいつの間にか掴まれてゆく。それまで聴いてきたアメリカンロックの線上にあるのに、見えてくる風景は違う。

 大学受験に失敗し、一年間の「浪人」時代があった。他の人と同じことをしたくない性格だから、予備校には行く気はなかったので、自宅で勉強をチョイスしたが、さすがに生活のリズムがとれないと思い、高校時代にやっていた新聞配達を再開させた。高校時代には朝だけだったが、この時期は時間があったので、朝と夕方の配達にした。新聞配達は朝が早いから夜は早めに寝ることになり、勉強時間は朝の配達を終えてから、夕方の配達時間まで時間帯が中心だった。
 勉強に飽きたら音楽聴いたりしながらの日々を過ごしたのだが、ある日の午後、なんとなく彼らのファーストアルバム「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」を聴いていた。このアルバムには有名曲「ザ・ウェイト」や「アイ・シャル・ビー・リリースト」が入っていて、何度か聴いていたのだが、この日、夕方の配達を前に、ぼんやりと聴いていた。

 何かが突然開けた、そんな感覚だった。
 音楽が自分の中に浸透しながら 、身体の隅々までに広がってゆく。こんなにも自然と揺さぶられ、それを受け止めることができるとは、心の底から音楽に触れたのだと、強く感じていた。それは、ある種衝撃的な感覚だった。

 けだるさ、時が止まったかのような中、遠くから響いてくるのかのような響き。冒頭の「ティアーズ・オブ・レイジ」から全く異質な感触がある。印象に残るロビー・ロバートソンのギター、疲れたようなボーカル、オルガンの音、そうした音がじわじわと伝わってくる。

 自分史を振り返ったときに彼らのファーストアルバムは非常に重要な存在なのだが、このアルバム中、ガース・ハドソンのオルガンソロから始まる「チェスト・フィーバー」には、とりわけ痺れた。オルガンの音に続きドラムらのリズムが入ってゆくときの、背筋を走る緊張感。そしてこの曲のオルガンソロはものすごくインパクトがあったのだが、今回この曲を久しぶりに聴きなおしてみた。リマスタ盤の英文解説を読んでいると、もしかするとは薄々思っていたが、やはりバッハのトッカータとフーガについての言及箇所があった。

 とても長い時間帯の中に、現在地点の繋がりが見えたような気がして、無意識に「チェスト・フィーバー」に反応していた10代の自分姿のどこかが、今の自分と重なった気がした。
(続く)


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第5楽章(3) ギターの音 [メインテーマ]

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 クラシック音楽を聴くようになるにつれ、ロックやジャズの聴く時間は減少していったが、全くのゼロということもなく、時々聴いていた。その中でよく聴いていたひとつが、サンタナの音楽だった。
 ラテンのリズムに、何といってもポイントはカルロス・サンタナのギターの音。とにかくいろいろなタイプの音楽が展開し、初期の作品は濃厚な感じが強かったが、徐々にポップなメロディー色を強め、近年作品はかなり聴きやすいものが多い。
 サンタナというバンドのメンバーはかなり流動的で、時代やアルバムごとで変わるし、ボーカリストも次々に異なる。90年以降の大ヒットアルバムにおいては、曲ごとにゲストミュージシャンを入れ、ボーカリストも曲ごとで異なるので、全体の統一感が損なわれるかと思いきや、全くそんな気配を感じさせない。周囲のミュージシャンがどんなに変わろうとも、常にサンタナのギターが流れてくると、サンタナの音楽聴いてるよな~、という気分になる。そう、どんなメンバーでどういうタイプの曲をやろうとも、曲の隙間からサンタナのギターが流れてくると、一発でサンタナの世界になるのだ。圧倒的な自身の存在感を表現する、このギターの音色のわかりやすさにほっとし、そして酔わされるのだった。

 振り返ってみると、常々過去からこうしたギターの音色には惹かれてきたような気がする。例えば、デュアン・オールマンやジェリー・ガルシアのギター音。ジャズギタリストではグラント・グリーン。さらに音楽の最初に耳にしたのは、ラリー・カールトンであったし、また前回書いたイーグルスでは、ホテル・カリフォルニアでのツイン・リードギターの音は強い印象があった。
 
 中でもデュアン・オールマンのギターは特別なものだった。もっと限定して言えば、1971年に発表されたオールマン・ブラザーズ・バンドの「フィルモア・イースト・ライブ」での演奏、と言ってもよいかもしれない。2枚組みのアルバムに全7曲、冒頭のブルース曲でのスライドギターから耳がギターの音色に引き寄せられてゆく。ミドルから緩やかな音の流れに、強烈なギターの音がからむ。
 彼らのスタジオ録音作品では、それほど感じなかったのだが、このライブは全く違う。ツインギター、ツインドラムが自在に動き回る。粘っこいグレッグオールマンのボーカルも熱い。そしてライブ空間を縦横無尽に駆け回るギターが、上に上にと上昇感をもたらしてゆく。

 ラストの「ウィッピング・ポスト」では20分を越える、徐々に熱くなってゆく演奏が白眉だが、もう一方で静かに始まる「エリザベス・リードの追憶」も捨てがたい。この曲、さらっとした、緩やかな心地よいテンポから入ってゆき、リードギターがこの曲の中核となるフレーズを引き終えると、にわかにリズムが動きだす。そしてそこからギターソロが入ってゆく。抑え気味に始まるが、すぐにギターは伸びのある音で、ぐいぐいと引き込んでゆく。誰にも捕まえられない、どこに行くのかもわからないトーンが自由奔放に空間を飛んでゆく。
 上昇感。どこまでゆくのだろう。気がつくと、ゆっくり始まったサウンドは止めることのできない熱気をはらんでいる。頭の中が真っ白になる。やがて曲は冒頭のフレーズ反復し、曲が終わる。ボーカルはなく、その間約13分間は、あっという間に過ぎてゆく。

 このアルバムは、聴くものを解放するような瞬間が随所にある。過去において重要だったが、年を取ると、もうあまり聴かなくなる音楽というものもあるが、この作品は違う。過去において大切だったし、今現在聴いても素晴らしいと思う。しかもまだまだ発見があり、その魅力は何ら陰ることもないのだ。

 一方でジェリー・ガルシアのギターの音にも影響を受けた。最初に聴いたグレイトフル・デッドの作品から、結構ポップで聴きやすいのだな、という印象を受け、それほど意識してはいなかった。しかし、1970年に発表した、「ライブLive/Dead」の冒頭曲「ダーク・スター」が大きなインパクトをもたらす。メロディーを求めるとそれに応えられるタイプの曲ではなく、途中短い歌が入るが、ほぼ20分間以上の間、ギターサウンドが全体を埋め尽くすような曲である。
 浮遊感。重力から放たれ、軽い身体が浮き上がってゆく。漂い、方向性を見失い、不安に駆られつつ、同時に自由な感覚が芽生えてくる。時間や空間からの解放。どこかに連れて行ってくれるようだが、行き先はわからない。漂流し、落下し、上昇し、そして再び流されてゆく。

 こんなふうに、ロックにおけるギターの音色に自分は惹き付けられていった。ロックの醍醐味として、例えばパワー、スピード、エネルギー、ワイルドさといった要素にも反応したのだが、中心には常にギターの音に相当の魅力を感じてきたのではないかと思う。
(続く)
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第5楽章(2) 出発点としての「イーグルス」 [メインテーマ]

 FMラジオを流れてきた曲の中から、自分の相性に合う音楽が見つかってゆく。イーグルスの「テイク・イット・イージー」はまさにそんな曲だった。爽やかな風を感じられる曲。からっとした、抜けのよい音。これだ。この路線、方向性だ。そうしてアメリカン・ロックを軸に進むことになった。

 一旦解散してから再結成もあり、その後もライブ活動や新作発表もあるが、バンドの実質は、1972年のデビューアルバムから、1979年の6枚のスタジオ録音までだろう。10代の時期、この6枚のアルバムはほんとによく聴いた。まさに自分の音楽の原点といってよいだろう。すっと入り込める親しみさ、メロディーのわかりやすい曲、軽やかさの中に、ギターを骨格にしたロックのダイナミックなテイストがある。ミディアム~スローなバラードタイプの曲に混じって、ハードなギターサウンドの曲があり、偏らない、このバランスが肝だったと思う。

 このバンドの一枚といえば真っ先に「ホテル・カリフォルニア」となるだろうが、このアルバム、バンドを越え70年代のアメリカの象徴作品として位置してるだろう。個別の曲の集まりでなく、冒頭からラストの曲まで、ひとつの時代の空気を、ホテルという摩天楼に重ねながら描いた作品のような気がする。
 音楽自体も緊密な糸で紡ぎ合わされた作品だが、歌詞もまた重要だった。歌われていることが正確に知りたくて、本屋で「イーグルス詩集」という歌詞の対訳本も買い、何度も歌詞を読んだ。音楽を聴きながら、歌詞を読み、ジャケットの写真を眺める。(見開きジャケットの内側には華やかな人々がたたずむホテルのロビー、そして裏面は誰もいなくなったロビーをひっそりと清掃する男が見える)

 特にタイトル曲「ホテル・カリフォルニア」と最後の「ザ・ラスト・リゾート」の歌詞は重要で、他の曲以上に深くこの作品世界の象徴していたと思う。歌詞の単語を一つ一つ辞書で調べ、何度も読み返した。知りたい、なんとか自分で理解したい、という一心で辞書をめくる。こうして音楽的な影響も大きかったのだが、同時に自然と英語学習にも直結したらしく、まさにこの「イーグルス詩集」、自分にとっての最高の英語学習教材ともなった。このおかげもあってか、大学受験にも多大な貢献を与え、まさに一石二鳥の効果があった。

 余談ついでだが、その後会社に入り、初めて米国出張したときにも、このことは自分を助けることになった。出張前は、音楽聴いてたから、現地会話程度ならわかるだろう、と考えていたのだが、この認識が甘かった。現地で仕事上の会話を耳にし、必死に理解しようとしたが、スピードが速すぎ、会話に全くついてゆけない。当然コミュニケーションもままならないし、ましてや、こちらから話すこともできない。そんな厳しい現実を突きつけられた中、ある日現地の人と仕事帰りにレストランで食事していると、店内で70年代の音楽がかかっていた。知っている曲が次々かかったので、おもむろに音楽のことについて話し始めてみた。単語やバンド名、曲名を並べてゆくうち、次第に音楽のことについて、話し始めてゆく。やがて話は「ホテル・カリフォルニア」というアルバムの素晴らしさについて話し出す。どれだけこの作品に影響を受けたのか、その素晴らしさについて、曲名、歌詞の一部も、自然と口からついてでてくる。今でも不思議なのだが、あの時、自分でも驚くほど、突然言葉が延々と流れ出してきた。相手も驚いていたのだろう。そのことがきっかけで、その後会話にも徐々に慣れてゆき、コミュニケーションもとれていった。まさに「ホテル・カリフォルニア」と「イーグルス詩集」が窮地を救ったとおもった。

 さて、「ホテル・カリフォルニア」という作品は、個のバンドを越え、時代の象徴的な巨大なスケール感をもったものとなったが、そういう意味において、イーグルスの中で別格な気がする。だから、自分の中ではその前まで4作品に、彼ららしさを感じる部分もある。

 全ての曲中で、最高傑作は「One Of These Nights」(邦題:呪われた夜)だと思う。ベースラインに、ギターがからんでゆくイントロのゾクゾクする感じ。それまでの作品に登場してきたカントリーフレイバーを廃し、緊張感ある引き締まったムードが全編を支配する。そして中間部のギターソロのかっこよさ!。とにかく全編におけるギターのサウンドは、多彩、冒頭から最後まで全く弛緩することなく、スリリングな展開が持続してゆく。何度も聴いた曲なのだが、今でも聴くとスリリングな感覚をもたらされる。

 また、アルバム単位においては、2ndアルバム「ならず者」が好きな作品。この作品の魅力はトータル・コンセプトの一貫性だと思う。西部開拓時代に実在したギャングをモチーフにした作品で、ジャケット、歌詞、音楽が一つの物語を描き出している。楽しげなカントリーサウンド、ヘビーなロック、落日の陰りをはらんだバラード類など様々なタイプの曲で構成され、例えば、アルバムの中でアクセントをもたらす「アウトローマン」は重心の低い、ハードボイルドな響きがかっこいい曲である。そうした音楽を聴いてゆくと、音楽のみならず、その後方に現れる風景やストーリーの空気感なども感じられ、一枚のアルバムがより広がりをもったものに感じられた。
 
 こうして、イーグルスを聴き込むことで、全体方向もアメリカン・ロックへと指向していった。フリート・ウッドマック、ドゥービー・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウン、トム・ペティ&HB・・・そうした音楽と供にまずは舵を切った。
 しかしここは出発点であり、もっと他の音楽も聴きたい、という気持ちは大きかった。自分の本当の意味で求めてる音楽はまだ知らない先にあるのかもしれない、という好奇心は膨らんでいった。こうしたて、この先模索と探求が続いてゆくことになる。
                                          (続く)
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第5楽章(1) FMラジオ [メインテーマ]

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 意識的に音楽を聴くことになったのは、FMラジオの存在だった。
 当時、中学生の頃、生活の中でラジオをよく聞いて過ごしていた。とはいえ最初から音楽に関心があったというわけではなく、一応歌謡曲のヒットチャートくらいは聞いていたが、あくまでもラジオのおしゃべりを聞くことの一環として程度のものだった。
 その後、FM放送の存在を知ると、番組の音楽をカセットテープに録音してみるようになった。カセットテープを買ってきて、FM番組を録音する、この「エアチェック」したテープを繰り返し聴いていた。

 最初から「洋楽」だった。学校からすっ飛んで帰宅、すぐにラジオの前に座り、4時からの「軽音楽をあなたに」という番組を固唾を呑んで、待ち構える。曲目紹介、そして曲の冒頭に合わせて録音ボタンを押すときの緊張感!
 最初に「エアチェック」した番組では、ラリーカールトンというギタリストのアルバム「夜の彷徨」からの冒頭曲「ROOM335」というタイトルナンバーがかかった。直感的にこういうのは、いいな~と感じた。早すぎもせず、遅くもないこのテンポにのっかたギターの音が心地よい。さっぱりしていて、濃厚さがない、この感じが気分よくフィットする。こういう音楽をもっと聴きたいな、と思い、その後は「洋楽」方向に舵を切ってゆく。「洋楽」には異国の、自分の知らない景色が後方にあって、日常生活の風景と違った世界を見せてくれた。

 毎週番組表を見ながら、「エアチェック」する番組を厳選し、録音。そしてそれを繰り返し聴く。もちろん当時のヒットチャートの曲もくまなくチェック。ホール&オーツ、TOTO、ジャーニー、クイーン、フォリナー、ビリー・ジョエル・・・書いてるだけで懐かしくなる・・・。とにかくこの頃はFMラジオとの「エアチェック」したカセットテープが毎日の中心だった。そうした中、ラジオ番組からは洋楽以外の音楽もあって、フュージョンを経由しジャズを知る事となってゆく。

 その後まもなくしてレコードを買うようになる。ラジオを聴いているうちに、自分の全体的な傾向や嗜好がどうもアメリカンロックあたりへあるのだろうと感じ、このあたりのジャンルから慎重に吟味。いわゆる「名盤」なんかも参考にしながら厳選の結果、一番最初に買った盤はイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」だった。次はフリート・ウッドマックの「噂」・・・。
 当然レコードを何枚も買えることはなかったが、次第にもっとレコードが欲しくなり、それが高じてついには高校時代に新聞配達を始める、というような生活に至ってしまった。

 そんなふうにして始まった音楽生活であるが、近年ふと思うことがある。あの頃、FM番組表の雑誌を買って、何度も番組表を眺めていたわけだが、どういうわけか「クラシック」音楽欄は最初から全く除外していた。試しに聴いてみようとかも考えたことも一度もなかった。最初からこれは自分の領域でない音楽として、決め込んでしまい、その決め込みは、その後20年以上効力を維持してしまう羽目になってしまった。封印したのではなく、最初から対象外にしてきた。なぜなのだろう。

 おそらく当時の生活環境の中にクラシック音楽に関係したものがあまりなく、なじみがないため、難しそう、というイメージがあっただろう。当時聴き始めた「洋楽」の雰囲気やテンポがよさそうにも感じていたこともあっただろう。そしてクラシック音楽というのは、自分に無縁の世界のもの、というふうに決め込んでしまったのだろう。

 だから最近よく空想するのだ。あのFMラジオの前で「エアチェック」していた頃、たまたまとあるクラシック音楽の放送を耳にすると、まさに終楽章の盛り上りのピークだったら。スイッチ入れたら、ちょうどスケルツォの楽章の激しくリズミックな音楽が突然飛び込んできたら、とか。そこで何となく音楽に耳を傾けていたら・・・などと空想してみる。

 もしかして早くからクラシックへ開眼していたのかも・・・と思いつつ、しかし、あの頃の自分の求めていたものは、クラシック音楽では解消しきれなかったように思う。洋楽から自分の求める音楽を模索してゆくうちに、やはりロックやジャズの中に自分の資質と共鳴するものがあり、特に10代から20代にかけて、そこを通過するプロセスは必要不可欠だったのだろう。やはり、こうした遠回りを経なければ、クラシック音楽にあれだけのめりこまなかったのだろう。そう思う。

(続く)
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第5章へのプロローグ [メインテーマ]

 振り返ってみると、ここ数年間の日々は、クラシック音楽に支えられていたのだと思う。知らない世界があって、それを知りたい。その動機が強力なモチベーションを生み、その状態が何年も続いていた。
 仕事と通勤で日々が過ぎてしまう中、不毛になりかけた日々を埋めるかの如く、クラシック音楽が自分にうるおいをもたらしていた。仕事で気が滅入ることや、理不尽な出来事に直面したとき、意味の乏しい会議の中で、その前の週末に聴いたコンサートの余韻を反芻したり、または来週聴きに行くコンサートのことでわくわくしたりしながら、何度かこうした無駄で不毛な時間をやり過ごしてきた。

 ここ5年間くらいは、そうした時間だった。気力が低下したり、つらいことがあったり、怒りに襲われたり、不安になったり、そんな中でクラシック音楽の中に自分の居場所をつくることで、どれだけやり過ごしてきたのか、その時はあまり意識してなかったが、振り返ってみるとその大きさを改めて実感する。

 しかし、この流れが徐々に変りつつあるような気がする。初めて聴く曲が減りはじめ、クラシック音楽への熱狂の日々は去り、少し落ち着いた感じでコンサートを聴くこともでてきた。そうすると、この数年間は他のことは後回しにし、クラシック音楽最優先で取り組んできた流れに変化が生じてきた。ひと段落したのだろうか、それとも少し飽きてしまったのだろうか。そうした中、徐々に関心がでてきたのが、「以前」聴いていた音楽との再会。

 最近この「以前」聴いた音楽を再度聴きなおすことが徐々に面白くなってきた。クラシック音楽を聴いた耳で、改めて聴いてみると、あれこんな箇所あったのか、とか、こういう曲の展開なのか、とかちょっと異なる視野から眺めている自分がいる。

 このブログを書き出し始めた経緯は、どうやってクラシック音楽を聴くようになったのか、ということを書きたかったからだが(これは長々と、「メインテーマ」で書いてきたのだが)、その原点にはクラシック音楽「以前」も存在している。ここにきて、一旦は4章形式に終結させたつもりだった、このメインテーマに補足したい気持がでてきた。付録や余波のようなものかもしれないが、「以前」聴いた音楽のウェートは現時点でも決して小さくない。

 疾走し続けた、熱狂の数年間が過ぎ、今そのペースが緩くなった。ここで立ち止まり、過去を振り返りつつ、かつ現在とリンクさせてみるのもよかろう、そんなことを考えている。
 これから夏場にかけて、このテーマで少し書いてみようと、思っている。
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