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ポール・オースター「ムーン・パレス」 [ポール・オースターの本]

 オースターの作品では、割と読み易い作品に該当すると思ってきた。ネット検索とか書評を読むと、自伝的、ルーツ探し、青春小説などの言葉が出てきて、また自分で読んだ過去2度の読書でも読みやすかった記憶もあった。しかし、今回再読してみると、そうとうは思えない感触が残った。
 おそらく、ここ数年のオースター作品を読み込んできたことによる蓄積部分、そして前回から20年以上経過していることも影響したのだろうが、今回の3度目に読むと過去の印象とは異なるものを感じた。

 確かに、主人公が1960年代後半の大学生という設定、また著者自身が卒業したコロンビア大学の学生という設定にも自伝的要素が重なる部分があり、前半はフォッグの学生時代のすさまじい貧困生活と転落、救済という部分が全面に出てくる。

 しかし中盤以降は老人エフィング、老人の息子ソロモン・バーバーの人生が入り込んでゆく。前半はフォッグが中心設定になってるが、中盤以降からフォッグは物語の聞き手としての位置にシフトしてゆく。偶然に関与した人物との接点を通じ、そこで語られる物語から派生した円環の中にいつの間にか取り込まれ、やがて気が付くと深く関与せざるを得ない状況に入ってゆく。

 エフィングという老人の破天荒で予測不能な人物に翻弄されながら、見えない糸がストーリーを牽引してゆく。老人の屋敷で住み込みながら書物の朗読するという風変わりなアルバイトをしながら、長大な老人の波乱万丈な人生が語られてゆく。エフィングからの奇異な指示、彼の奇抜な行動や習慣を目の当たりにしながら、話は現在を飛び越え、過去の時間に向かってゆく。
 これは本当の話なのか。しかもこの物語の展開部分というより、中核まで規模を拡大し、実際にこの小説の半分近く(およそ200ページ弱を費やしてる)相当の記述が費やされている。さらに途中で時間軸は1910年代までさかのぼり、西部への旅を経て洞穴で飢餓や空腹の危機的な状況を経てゆくが、これは前半のフォッグの金銭がなくなった窮乏状況に重なるのだろう。

 更にエフィングの死から、フォッグは息子のソロモン・バーバーと面会することになり、そこから驚くべき事実を知ってゆく。このバーバーの語りの中には、彼の書いた架空の小説が挿入されているが、これが結構な長さとなっており、途中で一体何の本を読んでるのか見失いそうになる。この構造はその後のオースター小説に何度か出てくる、いわゆる、物語の中に別の物語が入ってくる構造が本格的に登場した最初の作品かもしれない。

 そしてすべてがうまくゆきそうだった時間が崩壊へと向かう中、バーバーの死から残された無形の未解決の接点を足がかりに、洞窟を探す旅へとフォッグが動いてゆく。一体、エフィングが語った洞窟は途方もないでっち上げだったのか、それとも真実だったのか、それを探しに動きだす。何かに突き動されてるような無窮動の動きを経ながら、やがてたどり着く場所へと導かれる、そこに何か希望が感じられる。

 全体を通じ、月がいろいろな場面で上方から照らし出され、見えない糸のようなものが、個別の関係しなかった人をつなぎ合わせてゆくようだ。月面着陸、中華料理店(ムーン・パレス)、叔父の楽団名(ムーン・メン)、様々な月のイメージを中心点に添えながら、人の抱える深い暗闇とそれらを照らす月明かりが隣り合わせに感じられてくる。
  
 なお、ラストの方でフォッグとバーバーの何気ない会話があり、興味深い次作への伏線のような箇所があったので、以下追記しておきたい。
 バーバーはクープランは退屈だが、フォッグはクープランの「奇妙な障壁」は何度聞いても飽きないという部分がある。些末なエピソードのようだが、この曲は翌年発表された「偶然の音楽」の中でも引用されている曲である。


ムーン・パレス (Moon Palace 1989)柴田元幸訳 新潮社
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ポール・オースター死去のニュースについて [ポール・オースターの本]

 昨日、ポール・オースターが4/30に亡くなったというニュースを知った。77歳だった。

 昨年の3月頃にがんで闘病中というニュースがあったので、いつかこういう時が来るかもしれないとは思っていたが、ついに来てしまった。報道を知ってから、もう作品は執筆されないという事実、そしてこれまでの自分に大きく影響を与えてきたこの作家のことを、ずっと振り返っていた。
 
 このブログでオースター作品を取り上げ始めたのは10年以上も前のことだった。

 https://presto-largo-roadto.blog.ss-blog.jp/2013-07-21

 今回改めて自分の書いた文書を読み直してみたが、最初に書いた2013年当時の文書におけるオースター作品へのスタンスや感覚は今でも継続していると感じた。変わらない思いが続いているのだと。その文書の中で、なぜ自分はオースターの小説に寄せられるのかという説明を「言葉の質感の親和性」という表現で説明してるのだが、この感覚はオースターの作品に触れるたびに現在も響き続けおり、たぶんそれはこの後も続くのだろう。

 そのことを体感したのは、もう今から30年近く前のことになる。

 最初にオースターの本を読んだのは20代前半の頃だったが、大きな転機となったのは仕事の長期出張でシアトルに滞在していたときに読んだことだった。ある休日にふと書店に入り、広い店内を歩いてると、バーゲンで売られているコーナーがあり、その中に「The Music of Chance /Paul Auster」というタイトルが目に留まる。この作家本は読んだことがあったので、手に取ってめくっていると、英文にも関わらず、なぜか読めるような気がしたので、そのままレジの前に持っていった。

 しかし現実は甘くなかった。英語の原書はなかなか読み進めなく、話の方向性もつかみきれない。辞書引きながら前進を試みたものの、途中で諦めムードが漂い始め、そうこうするうちに帰国となった。結局、3分の1くらいしか読まなかったが、荷物になるからとその本は現地で処分してしまった。

 それから数ヵ月後、再び出張が入り、とある休日、古本屋を見つけた。その後何度かその店に足を運んだある日、古本の背表紙を眺めていたら、「Paul Auster」の本が目に留まった。前回途中で投げ出してしまったことを悔やんでいたこともあって、もう一度挑戦してみようと思った。いくつかの作品から偶然選んだのは、「Leviathan」という作品だった。今度こそはと思ったがまたしても途中までしか読めなかった。しかしこの時は、そのまま持ち帰り、帰国後に再開して読んでいった。

 序盤は原書を読むのがしんどく、数行ごとに辞書を引いていたのだが、いつの間にか、辞書を使う回数が減っていった。どのくらい時間をかけたのかわからないが、とにかく最後のページまでたどり着いた。最後に読みきったとき、達成感もさることながら、この作家の用いる言葉に接近できた感覚があった。自身の英語読解力の不十さ故、細部の内容がわからなかった箇所も多かったが、完全な意味を理解すること以上に、この作家の放つ言葉の求心力に引き付けられた。

 独特な単語の組み合わせが放つユニークで鮮烈な光沢。
 目まぐるしく変容する世界を包括的に括りこむ表現。
 人生の機微の断面をすっと切るように照射する文書。
 そして小説のリズムやテンポ感、それらの流れをくみ取り、同期しながら流れに乗ったと感じたとき、なんという豊潤な時間がそこに生じるのだろうか。そんなことがオースター作品を通して何度もあった。どれだけ他の作家の小説を読んでも容易には見いだせなかった「言葉の質感の親和性」といったものを初めて、強烈に感じたのがオースター作品だった。そしてその感覚が今でもずっとあるから、こうしてブログで作品について言及することができるのだろう。

 これまでこのブログで取り上げたのは12作品あり、今後もまだ書いてない作品は継続して取り上げてゆきたい。小説以外にも、エッセイ、自叙伝、詩集、編集・編纂、映画などを含めるとその作品量は相当な数になるが、コンプリートすることはないにせよ、主要な作品は自分のライフワークと思い、今後書いておきたい。

 その次回にあたる13作品目はオースターの「ムーンパレス」を予定。
 実は、「ムーンパレス」は先月末に読了して、感想文書もすでにほぼ書きあがっており、あとはいくつかの細部を確認するだけの状態だった。今回のニュースがあったので先送りしたので、次回掲載する予定。
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ポール・オースター「幽霊たち」~ホーソーン「ウェイクフィールド」 [ポール・オースターの本]

 いわゆる「ニューヨーク三部作」の作品の2作目にあたり、その後の多様な作風のラインナップの中でもひときわ異質さを放つ。探偵小説とハードボイルド風のテイストが強く、登場人物に割り当てた名前が匿名性を帯びた色名にしたこと(ブルー、ブラック、ホワイト、ブラウン)で、個の存在感はドライで、どこか透明な壁が挟まっているかのよう。短い小説(文庫本で122ページ)だが、初めて読んだオースターの小説で、ここからオースター作品に興味をもつこととなった作品。もっと端的に言うならば、冒頭1ページ目の人物設定を読んだ瞬間から、惹き付けられた気もする。

 見張るという行為に含まれる多くの待ち時間、孤独さと背中合わせの都市空間、延々と続く何も起きない日々。その停滞する時間の中から空想や妄想が生じ、肥大化してゆくうちに、退屈さにしびれをきらし、まるで事態を攪乱させるような行動に出る。

 最低限の外出、定期的な郵便での報告。とにかく物語は遅々として動かないまま進んでゆき、ある種退屈な展開ともいえるのだが、それだけで終わるわけはない。退屈な現実に空想が介入し、徐々に現実と非現実の境目が濁りだす。思考はぐるぐると放埓に伸び、ずっと動きがない状態に耐えがくなり、ついに動きだす。変装を持ちいて見張り相手に接触する、というリスク含みの行動に。わずかな裂け目を作り、そこで何かが反応する様を見たくなる。

 この小説には音楽はもとより、生活の雑音などの音もほぼ聞こえなく、サイレントな作品だとも感じた。無音の中、無声映画を見てるかのように。そして会話も非常に限定的である。
 人物に色の名前を与えることで個性を取り払い、登場人物の実在性は薄く感じられのに、読後の感触に匿名性を帯びたはずの存在感の影は強く残る。そして都市空間における孤独さがもたらす濃厚な影は、こうして今現在を過ごしてる自分の日常や生活の中に潜む、生の不安の影とどこかで重なってくる。

 そうした中、探偵が対象人物に接触する行動の下でなぜか話の俎上に上がってくるのが、過去のアメリカの作家たち(ウォルト・ホイットマン、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ホーソーンら)の人生や生活などのこと。状況からするとあまりに奇妙なのだが、その後物語の中で、さらに言及されてくのが作品が次の2作である。

・ヘンリー・デイヴィッド・ソロー「ウォールデン」
・ホーソーン「ウェイクフィールド」

 オースター作品には都市と密接に関わってる要素も強いが、一方で日常生活から隔絶した状況下という設定も何度か出てくる。ソロー「ウォールデン(森の生活)」は読んだことがまだないが、都市生活から離れ、ひっそりとした環境下での生活などはそのあたりとクロスするのだろう。

 そしてホーソーンの短編「ウェイクフィールド」。何の前触れもなく失踪する男の話で、このあらすじは1ページくらい使い、この小説内に差し込まれている。会話の中でその小説のあらすじが言及されたあと、対話自体も唐突に終わる。

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 ナサニエル・ホーソーンという作家は、先日読んだ「闇の中の男」でも取り上げられていたが、この「ウェイクフィールド」という短編を先日読んでみた。ストーリーは極めてシンプルで、あっけないくらいである。突然夫が失踪するが、近くに部屋を借りそこで暮らす。20年ほど経ったある日、突如妻の元に戻るという内容なのだが、しかし読後の不可解さは消えない。もしこの失踪が1週間とか1カ月程度で、何らかの理由が述べられたなら、ある種のハッピーエンドで収まったかもしれないが、20年である。しかも動機や理由は判然としない。

 ある意味夫は近くで妻の生活を見続け、見張っていたともいえる。そしてここには単調な時間も潜んでいる。そして都市空間において沈黙を保ちつつ、ある種の隔絶した状況を生みながら淡々と過ごす、という構造は、オースターの「幽霊たち」の探偵の行動と重なる部分もあり、そういう点からみてもホーソーンの小説を挿入したことは非常に意味深い。
 このホーソーンの短編は、何も起きないのに不気味な感じを受ける作品である。しかしそれらの行動が全く異常な行為とは思えないところもある。外界から姿を隠しひっそり生きるなどの行動への欲求のようなものは、直接的ではないにせよ、何某かの形で自分にも潜んでる気がする。例えば自分自身に抱えているある種の逃避願望などは、この小説を読むと意識の片隅に上がってくるのだ。

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 この「幽霊たち」は今回4度目の再読で、おそらく個人史上もっとも繰り返し読んだ小説になる。その後のオースター作品にしばしば現れる、隔絶した状況設定、単調さから生まれてくる思考、そして崩壊、そうしたモチーフの断片のいくつかは、この「幽霊たち」に組み込まれているが、人が避けて通れない孤独の時間との関わりについて、語りかけてくるものがあり、そうした点からも繰り返し読むことがか可能な作品だと思える。

「幽霊たち (Ghosts 1986)」 / ポール・オースター 柴田元幸訳  新潮社
「ウェイクフィールド」(Wakefield)/ナサニエル・ホーソーン ・・・「アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書) 」より
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ポール・オースター「闇の中の男」 [ポール・オースターの本]

 前回読んだ「写字室の旅」とカップリングされてていた「闇の中の男」の方も先日読んでみた。この2作とも、老人が室内で回想・空想しながら進行してゆく共通項はあるのだが、読み終えた感触は異なったものだった。

 2013年に「Day/Night」というタイトルでまとめられてるが、「闇の中の男」の方は眠れぬ夜中に物語を考えてゆくことから「Night」に該当する作品なのだろうが、重たい感触が底辺に残る。老いからくる身体の不自由さ、娘と孫娘の抱える苦悩・悲しみ、答えの見いだせない世界、そして戦争がもたらす現実的な悲劇と苦しみ。そうした中、空想世界で物語が進行してゆくが、国の分裂から起こった戦争に巻き込まれてゆく。葛藤と逃れられない運命に飲み込まれながら、ストーリーは唐突にシャットダウンして閉じられる。

 現実部分と別個に動いてきた物語は途中、自分自身も関与させながら、交錯してゆく。そんな中、孫娘とリビング一緒に見る映画の部分はこの作品のなかで、間接的ではあるが現実との折り合いをかすか感じさせてくれる気がした。特に小津安二郎の「東京物語」の挿入箇所は、何某かの救済的な感じをうっすらと添えるように、読み終えたあとどこか印象全体を中和させるようにも思えた。

 全体的に重いトーンで進んでゆくが、最後に多くの解消できない社会のもたらす弊害や問題の中、それでも続く人生にささやかな方向性を、ほんのりとだが残してくれる。いずれも部屋の中の老人という設定で進む2つの作品だが、身体の不具合性の緻密な観察や過去の記憶の回想を自由に泳がせた「写字室の旅」と「闇の中の男」は随分異なったテイストであったが、老いという問題が見せる2方向の世界としてとらえておくのが自然なのかと思った。

 この作品の物語パートでは国が分裂し、内戦状態に陥った世界が書かれてるのだが、国の中での内戦という状況設定を読んでるうちに今年読んだ一冊の作品が呼び起こされた。スティーヴン・クレインの南北戦争を題材とした「赤い武功章」(1895年)。この作品を読むこととなった契機は、オースターの近年の動向チェックしてる中に、2021年に発表した「Burning Boy: The Life and Work of Stephen Crane」という作品があった。この全く知らない作家、”Stephen Crane”とは何者か、とにかく一度読んでみようと思ったことだった。図書館で「赤い武功章」という作品を借り、読んでみたのだが、時代設定や南北戦争という知識に対し関心は低く、馴染みも薄い題材だったものの、死の可能性に直面しながらもどこか淡々とした記述のトーンは妙に印象が残った。今回「闇の中の男」を読んでる途中、国の分裂と内戦状態のあたりに差し掛かって時、そのバックグラウンドにスティーヴン・クレインの作品が想起されていた気がしたのだった。

 そして、もう一つ細部で気になったのはナサニエル・ホーソーンという作家の末娘の話が挿入されている点。ホーソーンという人は名前は聞いたことがあったが作品は読んでないが、オースター作品で既に言及されていることもあり、こちらも今後課題読書にリストアップしておいた。

ポール・オースター/「写字室の旅/闇の中の男」(2007、2008) 柴田元幸訳 新潮文庫
Travels in the Scriptorium 2007、Man in the Dark 2008
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ポール・オースター「サンセット・パーク」 [ポール・オースターの本]

 廃屋に不法居住する4人の男女の視点からストーリーが積み上げられゆく、群像劇のような形式。それぞれの抱える悩み、切羽詰まった経済状況から選択の余地が狭まった中、不法居住を余儀なく選ぶ。終盤に向かい、暫定的な暗黙の了解、関係性の変化が当座の妥協点を見出すかに思えたのだが、不法居住の問題は棚上げしたまま残ってゆく。そして当然のごとく、先延ばししてきた、不可避の問題に直面し、時間は突然停止する。

 4人の個々の独立した視点はあるが、一方で物語の中心はマイルズ・ヘラーという男をめぐる人間関係の方にも比重が置かれてる。父の再婚相手の義兄の事故に対する自責の念から両親の元を失踪、隠れるように生きてきた彼の人生が一人の若い女性とに恋することから、動きだす。

 群像劇とはいえ、冒頭そしてラストがマイルズ・ヘラーの視点で書かれた章ということで、中心はマイルズにあるようにも思えるが、彼を影のような場所から見てきた彼の父親の視点にも重きが置かれてる気がした。

 こうした複数の視点、不法居住する4人~マイルズ周辺の家族たちのストーリーを束ねるかのように、「我等の生涯の最良の年」という古い映画作品が随所に現れる。調べてみるとこの映画1946年 公開された アメリカ合衆国の映画だった。大学院生のアリスが論文題材でとりあげ、父の出版社と契約してる作家が移動中のフライトで見て、アリスとのエレンの会話でエレンの祖母が好きだった作品だったり、マイルズの生みの母の夫が講義で使う映画として。何かバラバラの関係を、蜘蛛の巣のように結びつけ、各方向に延びたそれぞれの物語を関連付けているかのよう。まるで、見えない糸で結合し、物語の関係をバインドしてゆくメタファーにも感じられた。

 途中マイルズの恋の発展、両親との和解など楽観的なムードもでてくるが、しかしラストは現実からの逃れようもない問題が重くのしかかる。そこにどう向き合ってゆくのか、それは書かれてはいないのだが、決して楽観的な空気は見えない気がする。ただ、いかなることがあろうと、どういいう行動になろうとも、生きてゆくことが延長線上に感じられる。

 さて、ポール・オースター作品は10年前から継続的に書いてゆくプロジェクトを立ち上げ、不定期的に進めてきたわけだが、予想以上に進捗がスローペースとなっている。
 現在生活の中で会社仕事部分も減ってきて、時間的に余裕が出来たこともあるので、今後少し集中的に取り上げてゆこうと思ってる。ちょうどこの猛暑で外出控えだったこともあり、既に先月から読書時間を増量、この2カ月間でオースター作品は2作読み、今回はそのひとつを書いてみた。
 もちろん今まで通り、気が向いたら書けばそれでいいのだが、こうしてあえてペースアップします、などと書くことで、自分に対し課題設定が与えられる。いつでもできると思ってしまうと、かえってペースが作れなくなり、先延ばししてしまうので、ここは少し集中的に取り組むため、年内は毎月最低一冊オースター作品を読む、としよう。


「サンセット・パーク」ポール・オースター/ 柴田元幸訳(2010)新潮社
(Sunset Park )
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ポール・ベンジャミン 「スクイズ・プレー」 [ポール・オースターの本]

 今年店頭にお目にかかったポール・オースターの別名義による探偵小説を読んでみた。文庫本の帯には「幻のデビュー長編にして最上質の私立探偵小説。・・・ハードボイルドの王道がここに」という宣伝文があったが、実際は思ってた以上にハードボイルド色が全面に出ていた小説だった。主人公である私立探偵の行動や信念・流儀は、ハードボイルド的な生き方を反映し、妥協や歩み寄りなどしないため、数々の打撃や危うい場面に直面する。しかし硬質な行動原理は曲げずに探索を続けてゆく。

 事件が起こり、圧力や妨害や危険に直面するという、ある種のハードボイルド作品の正統的なストーリー展開だと思うが、その後のオースター作品に直接敷衍してくような部分は、少ないような気がした。確かにその後80年代作品に探偵は登場するので関係性はあるともいえるが、その扱い方は異なる。例えば「幽霊たち」で登場する私立探偵ブルーには、自己の行動原理や信念といったものが見えず、またハードボイルド的で生き方も見えない。同じ探偵を扱ってるとはいえ、両作品の感触は相当異なっている気がする。

 全体的にハードボイルド作品で一貫した内容なのだが、その中で元妻と子供との関係の部分は雰囲気が異なっているように感じた。文庫本の解説(池上冬樹氏)でも書かれてるいるが、息子と野球場にいってその試合を描写したシーンは自分も読み終えた後、最も印象に残った部分だった。球場という空間で実際試合を見るという行為の中で体感するその時間、そして記憶となって残ってくだろう数々のプレーの光景なども含め、息子と共有した時間は非常に印象的である。

ちなみにこの野球については、オースター作品で何度か言及されてた気がしたので、調べてみたのだが、「孤独の発明」では忘れがたいプレーの思いでが、また「幽霊たち」でも探偵が野球場に行って試合を見る時間が書かれたりもしていた。

ポール・ベンジャミン 「スクイズ・プレー」田口俊樹訳(新潮文庫)1982年
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ポール・オースター「写字室の旅」 [ポール・オースターの本]

 定期的に書店には足を運んで、店内で何かその時の気分にガツンと適合するような発見がないかとささやかな期待を携えているのだが、先日文庫新刊にオースター作品が並んでるのをみて、すぐ購入した。いつもはひと通り新刊を眺めてから、最後に買うのだが、この日は見つけてすぐレジに向かい、書店滞在時間も短かった。
 帰宅してから、帯の「デビュー40周年」との文言に、もうそんなになったのかと不思議な感じがし、ふと裏の帯も見ると、目が点になった。「オースターが別名義で発表した幻のデビュー作「スクイズ・プレー」・・・同時刊行!」

 瞬時に固まってしまった。確かに文庫本を手に取ったとき、横に置かれてた本が少し気になってはいたのだが、そのまま素通りしてしまった、あの本か!。いつもなら、まあ急ぐ必要もないし、そのうちいずれ買おうか・・・なんて姿勢で済ませてしまうのだが、今回は早く読みたい、と急かす感じの欲求があり、翌日コンサートの開演前に書店に立ち寄り、その本「スクイズ・プレー」を見つけて買ってきた。結局2日続けてオースター作品を購入したことになるが、書店で短時間にうちに、目的買いで済ませるのは自分としては希少行動だろう。

 買ってからすぐ読もうとしたが、ちょうど図書館から借りてた本の返却期限がせまってた。いつもなら返済期限の近い本読み終えてから、となるが、今回は読みかけの本をいったん停止、買ったばかりの2冊の本に取り組むこととした。
 さてどっちから読もうか。やはり「スクイズ・プレー」は楽しみだから先延ばし、まず取り組むのはもう一冊の「写字室の旅」から読み始めることにした。

 この作品、過去にオースター作品に登場してきた人物がでてくるという。シリーズものであれば過去に登場した人物が再度登場するのはわかるが、オースター作品はシリーズものでもなく、一作ごと完結しており、これはどういうことなのか、と思いつつ読み始める。
 
 なぜ老人が部屋にいるのかは明確にされず、はっきとりとしない状況設定から始まる。しかも記憶が薄れており、部屋に来るものの言葉などによって過去のおこないが浮かび上がってくる。さらに老人が部屋にある原稿を読む。そこには全く別の物語があり、このストーリーの未完部分を創り上げようとする・・・。物語は室内空間で進み、あらすじは、かなり曖昧、ストーリーがどこに向かってゆくのか常に靄や霧がかかっており、見当がつかない。

 そんな中、老人の身体の動きに対しての描写は微細さを極め、通常見過ごしてしまってる身体動作を克明に描く。室内という限定された行動範囲にもかかわらず、老人にとっては簡単なことでなく、その動作が極めてスローモーション的に描かれ、特にトイレでの排泄行為のリアルさは身につまされる。ちょうど自分も尿をめぐる年齢的な問題が徐々に深刻化しており、頻尿、ちょい漏れ、追っかけも漏れなど、まさに日々自分自身の悩みの種がここに出てくる。本人は深刻でもがいてるのだが、いざ外から眺めると滑稽にも思え、そうした目線がこの老いの描写には感じられる。


 老人が過去に工作員として送り込んだ人物、部屋にやってくる人物、そして彼らが言及する人物は、過去にオースター作品で登場してきた人物が直接間接的に登場してくる。(アンナ・ブルーム(最後の物たちの国で)、ファンショー(鍵のかかった部屋)、ダニエル・クイン、ピーター・スティルマン(ガラスの街)などなど・・・)。
 帯には「これはオースターの自伝・・・なのか?」と書かれてたが、こうした過去の登場人物を呼び寄せることの遊び具合というのか、関連付けなどのもたらす意味など想像することが可能になるかもしれない。

 物語全体の像が曖昧で見えにくいのだが、老化した身体に生じる感覚から見た、現実と過去の記憶のねじれ具合が、不安定で奇妙な揺れの余韻を置いていった感じであった。

 なお、今回の文庫本化に際しては、以前単独に発刊された「写字室の旅」と「闇の中の男」の2作が文庫本化に際し一冊にまとまった形となっている。その背景は訳者あとがきに記載されてるが、どうもこの2作はふたつでひとつの作品ということらしい。今回は「写字室の旅」を単独で読んだが、この後「闇の中の男」を読み、そこでこの2作全体として眺めてみるつもりである。

ポール・オースター/ 柴田元幸訳「写字室の旅/闇の中の男」(2007、2008)新潮文庫
Travels in the Scriptorium 2007、Man in the Dark 2008

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ポール・オースター「ガラスの街」 [ポール・オースターの本]

 2013年にオースター作品を随時書いてゆこう、と思い立ったのだが、なかなかペースが上がらず、今回でようやく6作目。今回と選り上げるのは、初期の「ニューヨーク三部作」の一作目にあたる「ガラスの街」。我が記録手帳を調べたところ、前回読んだのが20年前なので、今回相当久しぶりに再読したこととなった。部分的には記憶されてはいたのだが、相当の時間が経過してたせいもあり、かなり忘却してた部分や発見もあった。

 初期の作品ではあるが、その後のオースター作品と共通する基盤がここでいくつか登場する。冒頭文書に現れる「偶然」が物語を起動し、その偶然性に突き動かされながら、その状況を受け入れてゆくプロセス。
 ある間違い電話から、作家のクインは探偵の仕事をなぜか引き取り、そこで求められた役回りに自分をはめ込んでゆく。そのうち探偵という自分と演じてる役回りが混在し、以前の自分との境目が判然としなくなってゆくが、こうして偶然性から始まったストーリーが実在の自分をも動かしてゆく。

 実際、自分の生活周辺でも、間違い、という偶然的な物事はよく起こるが、ほとんどやり過ごし、気にかけないまま通り過ぎてゆく。それでも時々、自分には関係のないことなのに、あれは一体どうなったのだろうとか、もし別のリアクションをしたら・・・などと考えてしまうことがある。考えすぎたり不安・心配性の気質が強いせいもあるので、よくそうした空想的な考えに陥ってゆくことがあるが、もしあの時別の選択をしたら、全く違った展開になったであろう、そんな空想や妄想はかなりしてしまう。

 そして一人であるということや、孤独さ。尾行、長期間にわたる見張りという行為においては、その場を動くことができないという空間的な限定性が生じ、ある種見張りという状況下に自分が閉じ込められてしまう。こうした類似状況はこの後の小説にも何度か形を変えて現れてくる。

 さらにある種の状況の変化を受け入れたことから生じる変容プロセスが描かれてゆくこと。
 クインは探偵役を引き取り、尾行をしながら、観察し、記録をつけてゆく。孤独な作業を通じ、やがてクインの中にある種の変容が生じてくる。クインは状況を受け入れ、それを意識的に役割として受容してゆく。きっかけは思い付きや些細なことだったが、ある種役割を積極的に受け入れることで、役を演じる自分の存在がクローズアップされ、やがて自分自身を凌駕してゆく。気が付くと探偵とそれまでの自分が不分離になり、やがて住居や金も失してゆく。

 こうして、偶然性や孤独さ、そして状況を受容しながら変容してゆくプロセス。こうした要素は変質しながら、その後の作品にも垣間見れるような気がする。こうした点からも、一通りオースター作品を読んでいった後に改めて「ガラスの街」は読み直すと、関連性や発見も多くあって、最初に読んだときより、深く味わえたかもしれない。

 なお途中、ドン・キホーテや登場人物のスティルマンが書いた「新バベル」という著作と歴史が入り混じった言及箇所が出てき、物語の展開からわき道に逸れてゆくが、これもその後の作品においても出てくるパターンと言ってよいだろう。

 また音楽に関してはほとんど出てこないが、前半に室内で聞いた音楽という設定が一か所あった。ハイドンのオペラ「月の世界」という作品。これは知らない作品だが、後の「ムーンパレス」のタイトルへとつながるのかとも思った。

ポール・オースター/ 柴田元幸訳「ガラスの街」(1985)CITY OF GLASS
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ポール・オースター「幻影の書」 [ポール・オースターの本]

 今年の初め、およそ3年降りにポール・オースターの小説を読んでみた。オースター作品を読んでなかった空白期間としては結構長い時間が経過し、ふと気づけば3年、まだ読んでなかった「冬の日誌」を読んでみた。自伝的回想録のような内容だが、ちょうど寒い時期に読んだこともあってか心に残った。

 そして今月再びオースター作品を読んだ。2002年に書かれた「幻影の書」。今回は再読になるが、10年以上も前になるので、ぼんやりとしたアウトラインくらしか残ってなかった。

 現実生活では、今までの生活パターンの変更を余儀なくされ、時短・休業による買い物の影響、外出自粛、そんな中でも毎日仕事で通勤もあり、とにかくバランスは崩れつつ日々過ごす中、オースター作品を読んだ。

 この小説では、私(ジンーマー教授)が物語る時間帯と、失踪した俳優の人生の2つの時間が動いている。妻子を失った教授が、失意の中、たまたま見たサイレントムービーの俳優に興味を持ち、やがて本を書く。ある時、手紙が届き、そこから失踪した俳優をめぐるを出来事に巻き込まれてゆく。

 教授の物語が軸なのかと思って読み進めるが、俳優(ヘクター・マン)の人生をめぐる物語も非常に分厚く、濃密に描かれている。中盤、アルマが語りはじめたヘクターのストーリーは延々続き、およそ100ページほどにわたる。数々の偶然に導かれるように数奇な運命をたどってゆくヘクターの過去の物語は、ちょっとしたエピソードではなく、この小説のは2つの中心となる物語の一つなのだと気が付かされる。

 そしてこの小説にはヘクターの出演した映画作品の描写がとにかく長い。ヘクターの残された映画作品を見た教授が作品容について言及し始めるのだが、事細かに記述が続いてゆく。例えば前半である出演作品「ミスター・ノーバディ」の話が出てくるのだが、ちょっとした言及だろうと思い読み進めるのだが、すぐに終わらない。まだ続くのかと次々ページをめくり、次第にそれが挿入エピソードではなく、ちょっとしたコンパクトな個別ストーリー程度になっていることに気が付かされる。

 この小説内小説というのか、物語内物語という構造は後半にも出てくる。「マーティン・フロストの内なる生」という映画作品については、40ページ近く続き、もはや短編小説といってよいだろう。以前はこうした箇所は飛ばして読んでいたこともあった気がするが、こういう構造自体を意識すると、読み方が結構違ってくるような気がする。

 教授が巻き込まれてゆく混乱状況や事件があり、そこに過去の映像作品のストーリーが交錯し、どっちの時間軸にいるのかと迷いが生じてくる。読後は非常に複雑な思いが残った作品ではあるが、途中の文書の中に、この作品、いやオースター作品全般について言えるような記述があった。「人は追いつめられて初めて本当に生きはじめる。」(314~315ページ)

 自分も今こうした状況下において、既存の価値観が揺らいでいる。今まで拠り所としてきたことが崩れ、自分の根源的な不安感が表出してしまった。そんな中この小説を読み、そして先ほどの文書を目にしたとき、もしかするとその分岐点に今時分は差し掛かっているのかもしれない、と思った。

 ちなみに、小説中音楽の記述はほとんど出てこないが、ヘクターの辿った奇妙な出会いのなかで、とあるパフォーマンスの最中に流れてたのが、ブラームスの弦楽六重奏第一番。これはその状況とのあまりのギャップさに、かえって印象には残った。

ポール・オースター/ 柴田元幸訳「幻影の書」(2002)新潮文庫
THE BOOK OF ILLUSIONS


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ポール・オースター「ミスター・ヴァーティゴ」 [ポール・オースターの本]

 オースター作品の中では、毛色の異なる作品といってよいだろう。1920年代という時代設定、空を飛べるという芸、師匠と呼ぶ怪しげな男、寓話性の強い作品である。そのため、初めて読んだ時、風変りな作品だな、という印象が強かったが、今回再読してみると、随分違った印象を受けた。

 芸の特訓における外界と閉ざされたかのような土地での生活時間、誘拐され閉じ込められた日々、そうした限定された空間に身を置くということは、ほかのオースター作品でも何度か登場してくる要素。アメリカ各地を転々としながら公演してゆく、移動という展開部分もオースターによく出てくる部分でもある。また事が次々とうまく運んでゆき、それらが突然暗雲に覆われ、崩落する、そうした展開もまた、オースターらしさがでている。
 
 こうして4つの章に区分された本書を読んでゆくと、その章の長さに大きな差異が見える。物語りの大半を占めるは、20年代の時代を背景とした、師匠との空中浮揚の特訓、芸の全米各地での公演、伯父による誘拐などの記述部分。この1、2章に7割近くを費やし、その後シカゴ時代を経て、最後の4章については、わずか20ページ程度の短さとなってる。

 最後第4章は激動と奔放の時代を過ぎた後の、どこか後日談的な感じにも思えたのだが、しかし読み終えてみると、この部分が強く印象に残る。ラスト2ページの淡々とした思いの記述の中に浮かびあがる、生きるということ通じた浮遊感のようなもの。「自分を霧散させる」ということを通じた生き方が、全編の寓話的な物語の中から浮かび上がってくる、そんな印象が残った。
 
 今回読み直してみると、一度目に読んだより、惹かれた感じがする。数奇な運命と転がるように流れてゆく生き方、最後にたどり着く場所、環境と時代に抗わず、しかし変わらないものがある、そんな生き方。ふと自分のここまでの足跡を振り返ってみた時、どこか感じる部分があったのかもしれない。それは10年前読んだときと、自分もまた違っているからだろう。

 この作品では、音楽との関係記述は多くなく、せいぜい公演が大規模になるにつれ、楽団を導入し、クラリネットとかトロンボーンなどの音を効果的に使うような箇所が出てくるくらいか。とはいえ、米国各地を移動しながら公演してゆく様について読んでるうちに、ふとボブ・ディランの1975~76年に大勢のミュージシャンを引き連れて旅回りのように行った「ローリングサンダーレビュー」という公演のことが思い浮かんだ。今年、ノーベル文学賞で何かと話題となったディランであるが、彼の多くのライブ盤の中でも、パフォーマンサーとして際立った時期の録音で聴ける内容だ。読後にこんな作品を聞くのも一興だろうか。

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ポール・オースター/ 柴田元幸訳「ミスター・ヴァーティゴ」(1994)

CD:Bob Dylan Live 1975, The Rolling Thunder Revue (The Bootleg Series Vol.5)

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