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映画 ボブ・マーリー:ONE LOVE [展覧会・写真・絵画など]

 ボブ・マーリーの映画「ONE LOVE」を見て思い出したのは、大学入学後のある午後の光景だった。

 ボブ・マーリーの音楽は高校生のころに体験済だった。10代後半に、70年代の名盤を探して聞いて中、ボブ・マーリーのレコードも買ったのだった。そのアルバムは、1975年発表された「ライヴ!」。解説ではレゲエ音楽という言葉があったが、そうしたレゲエ音楽という意識はあまりなかった。リズムが明確で強く、印象的にはロックよりのサウンド要素も強く感じられたのだろう。

 ずいぶん繰り返し聞いた記憶があり、有名な「ノー・ウーマン、ノー・クライ」「アイ・ショット・ザ・シェリフ」はもちろんだが 鮮烈に残ってるのは冒頭の「トレンチタウン・ロック」。最初の入りの部分から違和感なくこのリズムになじんでゆく。身体は緩いテンポに同期してゆき、アルバム全体もこのリズムで進行し、いつのまにか気分はゆるゆると高揚してしまう。

 やがて大学に入り、寮生活をスタートさせた、とある午後の時間が今でも記憶に刻み込まれている。入学当初はマメに授業を出席していたが、徐々に退屈に感じられ、自主休講も時々発生していたそんなある晴れた午後。突然休講になったのか、講義聞くのが面倒だったのか、はたまた二日酔いのせいにしてたのか、それともさしたる理由などなかったのか、定かでなないが、ともかくその日大学に向かうことなく午後部屋で寝そべって過ごしてた。そんな天気のいい午後の時間、突然下の階から音楽が聞こえてきた。

 え、これボブ・マーリーではないか。しかもあのライブ盤。高校時代に既に聞いてたとはいえ、同世代ではこういう話題ができる人は周囲にいなかったので、この音楽知っている人がいるのだと驚いた。当時の寮は民家も近くになく、のどかな場所にあったし、よく窓開けて過ごしてたのだが、この時の情景は残っている。講義に出席せず階下から聞こえてくるボブ・マーリーを聞きながら、まったりとしながらくつろいだ気分になっていた、その時間風景。

 それから会社に勤め、やがて10年以上過ぎた頃、ボブ・マーリーの他のスタジオ録音を何枚か買って聞いてみた。が、結局のところ、やはりこのライブ盤が一番ピンとくる。

 近年全く聞くこともなかったのだが、一昨日映画館でボブ・マーリーを見聞きしながら、自分はこの人の音楽背景全然知らなかったこと改めて気が付いた。政治闘争の背景や暗殺未遂事件からロンドンに向かい、そこで1977年「エクソダス」というアルバムを作ったことなど。そして「トレンチタウン・ロック」のトレンチタウンというのが、ジャマイカでの育った場所ということなど。

 帰ってから、久しぶりに「トレンチタウン・ロック」聞いてみた。30年くらい聞いてなかった気がするが、ちょっと聞くと一気に記憶は戻ってゆく。聞き終わってもこの曲が頭の中で再生され、ループしながらまるでエンドレスに反復されるように流れてゆく。あまり意識しなかったけど何度も聞いた曲だったな、と改めて思った。

映画:Bob Marley: One Love 2024年製作

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マーラー:大地の歌/ 東京交響楽団 [コンサート(オーケストラ)]

 2日連続でマーラー演奏会。金曜日は交響曲9番、昨日は大地の歌、といういずれも60分超えの重めのメニューとなった。

 しかも昨日の公演曲は前半2曲は初めて聞く作品(武満徹、ベルク)、そして後半マーラーというヘビーさを感じさせるラインナップだった。
 この日はどうも気分的に軽めの曲を求めてたこともあったのか、「大地の歌」の酒を飲み酔ってゆく曲あたりは、その日の気分とマッチした。いままであまり感じなかったが、とりわけ奇数曲におけるテノールの歌声が曲や歌詞と親和性が高く感じられた。

 第1~5曲までは全般的に楽観的で、酔った感じの気分の中で聞けるのだが、最後の30分近い第6曲は違ってくる。第1~5曲までは、内容は異なるが交響曲第4番あたりの明るい雰囲気にも近い部分があるのか、一方第6曲は交響曲第9番の世界観に近いような感じがある。この差異は曲調においても結構大きな隔たりはあるが、第1曲目の歌詞で人生の無常さが言及されており、酒の酔いや若さや孤独感といった諸相を経ながら、告別に至る、ひとつの人生のサイクルとして聞いてゆくと、最後に完結した感じも残る気がした。また、第6曲の中盤あたりからソプラノの抑制した中の感情がじわじわにじみ出てきて、このあたりは印象深かった。

 8年ぶりに聞いたこともあるが、酔いの楽しみ、寂寥感、そういった感情の同居する中で聞くと、以前とは感触が少し変わった気がした。

指揮:ジョナサン・ノット/ 東京交響楽団
メゾソプラノ:ドロティア・ラング テノール:ベンヤミン・ブルンス

2024/5/11 ミューザ川崎シンフォニーホール
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ポール・オースター「ムーン・パレス」 [ポール・オースターの本]

 オースターの作品では、割と読み易い作品に該当すると思ってきた。ネット検索とか書評を読むと、自伝的、ルーツ探し、青春小説などの言葉が出てきて、また自分で読んだ過去2度の読書でも読みやすかった記憶もあった。しかし、今回再読してみると、そうとうは思えない感触が残った。
 おそらく、ここ数年のオースター作品を読み込んできたことによる蓄積部分、そして前回から20年以上経過していることも影響したのだろうが、今回の3度目に読むと過去の印象とは異なるものを感じた。

 確かに、主人公が1960年代後半の大学生という設定、また著者自身が卒業したコロンビア大学の学生という設定にも自伝的要素が重なる部分があり、前半はフォッグの学生時代のすさまじい貧困生活と転落、救済という部分が全面に出てくる。

 しかし中盤以降は老人エフィング、老人の息子ソロモン・バーバーの人生が入り込んでゆく。前半はフォッグが中心設定になってるが、中盤以降からフォッグは物語の聞き手としての位置にシフトしてゆく。偶然に関与した人物との接点を通じ、そこで語られる物語から派生した円環の中にいつの間にか取り込まれ、やがて気が付くと深く関与せざるを得ない状況に入ってゆく。

 エフィングという老人の破天荒で予測不能な人物に翻弄されながら、見えない糸がストーリーを牽引してゆく。老人の屋敷で住み込みながら書物の朗読するという風変わりなアルバイトをしながら、長大な老人の波乱万丈な人生が語られてゆく。エフィングからの奇異な指示、彼の奇抜な行動や習慣を目の当たりにしながら、話は現在を飛び越え、過去の時間に向かってゆく。
 これは本当の話なのか。しかもこの物語の展開部分というより、中核まで規模を拡大し、実際にこの小説の半分近く(およそ200ページ弱を費やしてる)相当の記述が費やされている。さらに途中で時間軸は1910年代までさかのぼり、西部への旅を経て洞穴で飢餓や空腹の危機的な状況を経てゆくが、これは前半のフォッグの金銭がなくなった窮乏状況に重なるのだろう。

 更にエフィングの死から、フォッグは息子のソロモン・バーバーと面会することになり、そこから驚くべき事実を知ってゆく。このバーバーの語りの中には、彼の書いた架空の小説が挿入されているが、これが結構な長さとなっており、途中で一体何の本を読んでるのか見失いそうになる。この構造はその後のオースター小説に何度か出てくる、いわゆる、物語の中に別の物語が入ってくる構造が本格的に登場した最初の作品かもしれない。

 そしてすべてがうまくゆきそうだった時間が崩壊へと向かう中、バーバーの死から残された無形の未解決の接点を足がかりに、洞窟を探す旅へとフォッグが動いてゆく。一体、エフィングが語った洞窟は途方もないでっち上げだったのか、それとも真実だったのか、それを探しに動きだす。何かに突き動されてるような無窮動の動きを経ながら、やがてたどり着く場所へと導かれる、そこに何か希望が感じられる。

 全体を通じ、月がいろいろな場面で上方から照らし出され、見えない糸のようなものが、個別の関係しなかった人をつなぎ合わせてゆくようだ。月面着陸、中華料理店(ムーン・パレス)、叔父の楽団名(ムーン・メン)、様々な月のイメージを中心点に添えながら、人の抱える深い暗闇とそれらを照らす月明かりが隣り合わせに感じられてくる。
  
 なお、ラストの方でフォッグとバーバーの何気ない会話があり、興味深い次作への伏線のような箇所があったので、以下追記しておきたい。
 バーバーはクープランは退屈だが、フォッグはクープランの「奇妙な障壁」は何度聞いても飽きないという部分がある。些末なエピソードのようだが、この曲は翌年発表された「偶然の音楽」の中でも引用されている曲である。


ムーン・パレス (Moon Palace 1989)柴田元幸訳 新潮社
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ポール・オースター死去のニュースについて [ポール・オースターの本]

 昨日、ポール・オースターが4/30に亡くなったというニュースを知った。77歳だった。

 昨年の3月頃にがんで闘病中というニュースがあったので、いつかこういう時が来るかもしれないとは思っていたが、ついに来てしまった。報道を知ってから、もう作品は執筆されないという事実、そしてこれまでの自分に大きく影響を与えてきたこの作家のことを、ずっと振り返っていた。
 
 このブログでオースター作品を取り上げ始めたのは10年以上も前のことだった。

 https://presto-largo-roadto.blog.ss-blog.jp/2013-07-21

 今回改めて自分の書いた文書を読み直してみたが、最初に書いた2013年当時の文書におけるオースター作品へのスタンスや感覚は今でも継続していると感じた。変わらない思いが続いているのだと。その文書の中で、なぜ自分はオースターの小説に寄せられるのかという説明を「言葉の質感の親和性」という表現で説明してるのだが、この感覚はオースターの作品に触れるたびに現在も響き続けおり、たぶんそれはこの後も続くのだろう。

 そのことを体感したのは、もう今から30年近く前のことになる。

 最初にオースターの本を読んだのは20代前半の頃だったが、大きな転機となったのは仕事の長期出張でシアトルに滞在していたときに読んだことだった。ある休日にふと書店に入り、広い店内を歩いてると、バーゲンで売られているコーナーがあり、その中に「The Music of Chance /Paul Auster」というタイトルが目に留まる。この作家本は読んだことがあったので、手に取ってめくっていると、英文にも関わらず、なぜか読めるような気がしたので、そのままレジの前に持っていった。

 しかし現実は甘くなかった。英語の原書はなかなか読み進めなく、話の方向性もつかみきれない。辞書引きながら前進を試みたものの、途中で諦めムードが漂い始め、そうこうするうちに帰国となった。結局、3分の1くらいしか読まなかったが、荷物になるからとその本は現地で処分してしまった。

 それから数ヵ月後、再び出張が入り、とある休日、古本屋を見つけた。その後何度かその店に足を運んだある日、古本の背表紙を眺めていたら、「Paul Auster」の本が目に留まった。前回途中で投げ出してしまったことを悔やんでいたこともあって、もう一度挑戦してみようと思った。いくつかの作品から偶然選んだのは、「Leviathan」という作品だった。今度こそはと思ったがまたしても途中までしか読めなかった。しかしこの時は、そのまま持ち帰り、帰国後に再開して読んでいった。

 序盤は原書を読むのがしんどく、数行ごとに辞書を引いていたのだが、いつの間にか、辞書を使う回数が減っていった。どのくらい時間をかけたのかわからないが、とにかく最後のページまでたどり着いた。最後に読みきったとき、達成感もさることながら、この作家の用いる言葉に接近できた感覚があった。自身の英語読解力の不十さ故、細部の内容がわからなかった箇所も多かったが、完全な意味を理解すること以上に、この作家の放つ言葉の求心力に引き付けられた。

 独特な単語の組み合わせが放つユニークで鮮烈な光沢。
 目まぐるしく変容する世界を包括的に括りこむ表現。
 人生の機微の断面をすっと切るように照射する文書。
 そして小説のリズムやテンポ感、それらの流れをくみ取り、同期しながら流れに乗ったと感じたとき、なんという豊潤な時間がそこに生じるのだろうか。そんなことがオースター作品を通して何度もあった。どれだけ他の作家の小説を読んでも容易には見いだせなかった「言葉の質感の親和性」といったものを初めて、強烈に感じたのがオースター作品だった。そしてその感覚が今でもずっとあるから、こうしてブログで作品について言及することができるのだろう。

 これまでこのブログで取り上げたのは12作品あり、今後もまだ書いてない作品は継続して取り上げてゆきたい。小説以外にも、エッセイ、自叙伝、詩集、編集・編纂、映画などを含めるとその作品量は相当な数になるが、コンプリートすることはないにせよ、主要な作品は自分のライフワークと思い、今後書いておきたい。

 その次回にあたる13作品目はオースターの「ムーンパレス」を予定。
 実は、「ムーンパレス」は先月末に読了して、感想文書もすでにほぼ書きあがっており、あとはいくつかの細部を確認するだけの状態だった。今回のニュースがあったので先送りしたので、次回掲載する予定。
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ヴァン・モリソンのライブ盤 [昔聞いたアルバム]

 好きなミュージシャンという意識はなかったが、改めて振り返ってみると結構聞いたのが、ヴァン・モリソンかもしれない。
 60年代後半から70年前半の名盤といわれる「アストラル・ウィークス」、 「ムーンダンス」、「テュペロ・ハニー」あたりはもちろんだが、とりわけよく聞いたのは1987年以降の作品だった。きっかけとなったのは1987年発表の「ポエティック・チャンピオンズ・コンポーズ」だった。インスト曲のサックスがとりわけ印象に残り、その後「アヴァロン・サンセット」 (1989年)、「エンライトンメント」 (1990年)、「トゥー・ロング・イン・イグザイル」 (1993年) の3枚はよく聞いてた記憶がある。70年代の作品には躍動感があるが、80年代後半以降の作品には深みのある声が印象的だった。聞いてると、そのがっしりとした声に包み込まれる時間があり、当時何度か聞いていた。

 そんな中で、やはりライブ盤はどれも聞きごたえがあるが、今回は「ナイト・イン・サンフランシスコ - A Night in San Francisco」 (1994年)を書いてみたい。
 70年代の屈指のライブアルバムであり、彼の音楽の魅力に触れる「魂の道のり - It's Too Late to Stop Now」 (1974年)は間違いなく彼の代表ライブアルバムで、ロックやR&Bなど様々なエッセンスがちりばめられ、最後の方は尋常じゃないテンション盛り上がる。まるでゴスペルのようにシャウトしまくり、圧倒されたライブ盤であるが、その20年後に発表されたライブ盤には、また違った魅力が詰まっている。
 若さからくるエネルギーや勢いは若干後退してはいるが、それに代わってナチュラルで、懐の深い音楽がゆったりと流れる川のように感じられる。バンドメンバーそれぞれが個々の特色を寄せ合い、心地よい、時に跳ねるように、時に緩やに、曲によって表情はいかようにも変化しながら、グルーブのある音が常に感じられる。

 そしてこのアルバムには前作「トゥー・ロング・イン・イグザイル」でのジョン・リー・フッカーとの共演があったことも関係してたのだろう、ジュニア・ウェルズ、ジョン・リー・フッカー、ジミー・ウィザースプーンらの大御所的ブルースミュージシャンのゲスト参加があり、これがまた音楽の原点に触れるような深みを添えて、誠に味わい深い。
 
 CD2枚組で計22曲、150分を超える長丁場。選曲は当時の近年の曲中心に、キャリア代表作やブルース曲なども万遍なくちりばめられる。しかも自作以外の古い曲をメドレーに織り交ぜるので、22曲と書いたが実際はもっと多い。例えば後半の14分を超える「ロンリー・アヴェニュー/4クロック・イン・ザ・モーニング」の演奏には多くの曲が引用※され、こうした各種の引用を含めると合計40曲近く登場してるようだ。自分でも知らないR&Bやブルース曲も多く、ある種音楽ヒストリーを回顧しながら、音楽に対するリスペクトや愛情、懐の深さを感じさせる。

 このCD数年ごと、思い出したように何度か聞いてきたが、心地よさが横たわり、聞くたびに発見もある。そして退屈とは無縁の音楽の豊かさに包まれる、そんな時間が毎回ある。

CD:「ナイト・イン・サンフランシスコ」(A Night in San Francisco)/Van Morrison 1994

※ 「ロンリー・アヴェニュー/4クロック・イン・ザ・モーニング」の演奏に引用登場してくる曲

・ロンリー・アヴェニュー - (Doc Pomus)
・ビー・バップ・ア・ルーラ - (Gene Vincent, Bill Davis)
・4オクロック・イン・ザ・モーニング - (V. Morrison)
・ファミリー・アフェアー - (S. Stewart)
・ユー・ギヴ・ミー・ナッシング・バット・ザ・ブルース - (V. Morrison)
・ホエン・ウィル・アイ・ビカム・ア・マン - (Erica Ehm, Tim Thorney)
・スーナー・オア・レイター - (Vernon, Ross, Shaw)
・ユー・ギヴ・ミー・ナッシング・バット・ザ・ブルース - (V. Morrison)
・ダウン・ザ・ライン - (Roy Orbison)
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ブルックナー:交響曲第5番/ 神奈川フィル [コンサート(オーケストラ)]

 今年はブルックナーの生誕200周年。
 ということで2024年は各地でブルックナー交響曲が取り上げらる回数も多いようで、こちらも例年より聞く回数は増えそうだ。現時点で今月2回、9月にも2回の合わせて計4回聞く予定が既にあり、更にあと一回追加も予定しており、そうすると年間5回になるかもしれない。
 あらためて年間ごとでブルックナー交響曲聞いた過去記録を集計してみたところ、これまでの年間最大回数は3回だったので、どうやら今年は記録更新となりそうだ・・・。

 さて、今月はブルックナー月間の第一弾にあたり、先週の交響曲第3番(日本フィル、サントリーホール)に引き続き、昨日は第5番を聞いてきた。2週連続でブルックナー交響曲である。

 第5番はこれまでの体験もあるので、曲の外観、長い道のりや道程、起伏にある程度ついてゆける気もするが、7年ぶりである。とにかく80分近い長い曲なので、道に迷わないようにと思いつつ、今回は最終楽章のフィナーレを強く意識して臨むことにした。
 
 最後の結論や答えをまず念頭に置き、そこからプロセスを組み立てること。これは自分自身の物事に対するアプローチの基本にも重なり、問題や課題があると、まずこれは最後どういう結果、結論なるかを意識し、そこから必要な時間、工程を組み立ててゆく。しかしデメリットも多く、とにかく行動反応が常に遅い。即断即決したり、パッと考えすぐ行動できないので、それを実行できる人をうらやましく思うこともあるが、選択肢をあれこれ吟味しすぎ、決断は延々と先延ばしする資質は変えられない気もする。

 そんなことを考えてたら、交響曲も最後のフィナーレを意識することで、そこにたどりつくまでの長い工程を聞くという、アプローチもうまくゆくだろうかと思い、今回取り組んでみた。

 この日の公演は休憩なしの一曲だけのプログラム。
 フィナーレ目指し、長い曲を聴き始める。第1楽章に登場するいくつかの主題、金管楽器の音が抜けるように非常によく伸びていた。ゆっくりめの第2楽章、スケルツォの第3楽章では、反復が多くなるが、意識は最終楽章に置き、反復と長い過程はやや俯瞰しながらやり過ごす。開始から50分以上過ぎ、ようやく最後の長大な最終楽章が始まった。この楽章は主題の再現、回想ということがよく解説に書かれてるが、聞いてると、曲全体のダイジェスト版としてこれまでの振り返りとまとめの楽章、という印象も受けた。

 主題の回想からクラリネットによる動機が入ると、回想の主観から、さっと客観的な視野にずれる感じがある。そしてこの楽章の展開部は、コラール主題のフーガが続く。以前から、この長いフーガの部分がどうもよく位置付けられなかったのだが、今回フィナーレを念頭に置いていると、ここは最後の圧倒的なスケール感との対比、そしてフィナーレに向かう導入点でもあるのかとも思った。
 そして第4楽章が20分近く経過したあと、フィナーレが始まる。残り約5分間、ここから圧倒的なクライマックスを形作られる。主題が再現されながら、曲の抱えていたエネルギーがここにきて放出されてゆく。テンポも上がり、リズミックさ、動的で広がりを持ち、全開放されてゆく。ここまでの長い長いプロセスがこうして集結するかのよう。

 80分近い曲のラストクライマックスに広大な空間に広がる音。長い道のりを超え、この曲のゴールに近づいてゆく。
 大きなうねりの中に取り込まれると、自分の存在は縮小し、小さきものに思えてくる、そんな圧倒的なスケールの海原に飲み込まれてゆく。そんな余韻が残った。

指揮:沼尻竜典/ 神奈川フィルハーモニー管弦楽団東京交響楽団
2024/4/20 横浜みなとみらいホール
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レニー・トリスターノ [ジャズ関係]

 レニー・トリスターノというジャズ・ピアニストの、その独自すぎる音色はジャンル枠は超え、ジャズというカテゴリーに閉じ込めておくこともできない、と思ってきた。

 その音は鮮烈で、ゴツゴツとした粗い物質、叩きつけてくるようなタッチ、ザクザクとした粗削りな触感を想起させ、滑らかさとは対極の音がそのピアノから弾かれてくる。ジャズの文脈でよく「トリスターノ派」とか「クール・ジャズ」とかという言葉とともに言及されているようだが、スウィング感より硬質なリズミック感が前にでてきてる音、と感じる。

 ただ、この人の主要な作品は極めて少ない。サイドメン参加とかライブ盤とかはあるのだが、存命中にでたリーダーとしてのアルバムはわずか2枚。

1955年の『鬼才トリスターノ( Lennie Tristano)』
1962年の『ニュー・トリスターノ(The New Tristano)』 

 このうち最初に聞いたのは「鬼才トリスターノ」の冒頭曲「ライン・アップ」。この曲を聞いたとき、その乾いた硬質なピアノ音に驚き、インパクトを受けた。ドライで柔らかな音色から乖離したその音を耳にすると、それまで聞いてきたジャズピアノの作品とあまりの違いに、戸惑いつつ、強いインパクトがあった。
 
 そしてこのアルバムの特徴として、前半と後半の著しい差異があるということ。前半はトリスターノワールド全開で、わずか4曲目とはいえ、ガツンとした衝撃がある。4曲中、ソロ演奏2曲とトリオ演奏2曲という形だが、このトリオ演奏についても通常とかなり違う。共演者にドラムとベース奏者の名前はあるが、ほぼトリスターノの世界を後方サポートするだけで、ドラムとベースが前面に出ることなく、ソロも介入する余地もないまま、トリスターノだけが突っ走る。

 しかし、後半は全く違い、前後半で別物の2部構成となっているのだ。
 後半の残りの5曲は、リー・コニッツらとのカルテットによるライヴ音源が収録されているのだが、前半のドライで乾いた硬質感のある音は影を潜め、その落差に拍子抜けするくらいの違いがある。ただし、よくよく聞いてると、滑らかさには程遠いタッチは感じられる。

 そして、一般的なジャズの演奏のお約束事的展開とどうも違う曲がある。例えば「You go to my head」では最初にコニッツのアルトサックスがメロディーを奏で、中間部からトリスターノのピアノに移り、そしてそのまま最後までトリスターノが弾ききる。ピアノソロに受け渡した後、最後はサックスに戻り・・・という展開が欠落したまま曲が終わる、唐突で何か消化不良を感じさせるこの終わり方。5曲中2曲がサックスに戻ることなくピアノで終わってしまう、これもまた不思議な違和感を生じさせる。
 
 この前後半の内容には埋めきれない落差、温度差があるとはいえ、やはり前半4曲だけでもあり余り過ぎるくらい大きな価値がある。トリスターノのドライで硬質な、粗いメッシュの、ゴツゴツしたタッチのピアノの音色は、他のピアニストとは全く違う、その音に触れることができるのだから。
 しかも50年代のこの録音で、すでに前半4曲で多重録音とかテープの速度変更など試みてることから、おそらく現代の録音環境で作成してたら、どんなことやったのだろう、そんな空想も浮かんでくる。

 蛇足ながら、このアルバムタイトルは「Lennie Tristano」で、邦題は「鬼才トリスターノ」と変換されている。当初すごいタイトルだなと思ってたが、最近これは結構内容に合っており、適切な題名なのかもしれない、と思うようになってきた・・・。

CD:「鬼才トリスターノ(Lennie Tristano)」(Atlantic 1955年)
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シューベルト弦楽四重奏曲 第13番/キアロスクーロ・カルテット [コンサート(その他)]

 3月は気温上がらない日続いたが、月末に気温が急上昇。その日はコンサート予定で外出の日だったが、外出してみると思ってたよりはるかに暑い。結局駅までの途中、今年初めて半そでになる。冷え性と寒がりの自分がこれだけ暑さを感じるということは、一般的な人はもっと暑さを感じてただろう、と思いながら、ここ数年こうした急激な寒暖差は身体の対応が難しくなってると痛感するばかり。

 この日は、初めて聞く、キアロスクーロ・カルテットの演奏。
 ガット弦&ノン・ヴィブラート、低めのピッチで演奏するとのことで、音色はいつもと違うものになると予想してたが、それ以外にも違いはあり、チェロ以外が立奏、譜面はタブレットということで、視覚的にも違った。

 冒頭曲にはパーセルの作品。弦楽四重奏公演でハイドンより前の作品が取り上げられたのは記憶にないので、大変珍しい選曲。前半2曲目はハイドン弦楽四重奏曲「冗談」。最終楽章のユーモラスな演奏は終わったと思わせつつ、この曲はやはり実演で聞いてこそ面白さがあり、まさに「冗談」の表現にやられた、というところ。

 後半はシューベルト弦楽四重奏曲 第13番「ロザムンデ」。この曲の第2楽章は声高に語ることなく、シューベルトの歌心あふれる楽章だが、そうした心情が音色にうまく反映していたと思う。

 ガット弦とかピッチの低さから、やはり音はくぐもった感じがあり、ぐっと広がることはない印象だった。普段と違う音色だったこともあり、やはり無意識に慣れ親しんだ音色と比較するので違和感は確かにあった。そんな中、聞くにつれ、外側に向かって伸びやかに広がってゆくというより、音のイメージは内側に入ってくるような感じがあった。音が内側に、というのも妙な表現で、自分でも詳細な説明ができないのだが、どういうわけかイメージ上でそういう風に感じていた。
 そしてその内側に方向性をもった音に、どこか親密な会話のようにも聞こえてきた箇所もあった。

 生活レベルでも、毎日の繰り返しの手順や順番がいつもと違たったりすると、違和感が生じることがある。また、例えば駅までの歩く道を突然途中で曲がるとか、よく食べる店で急に注文したことのないメニューを頼んでしまうとか、部屋のカバンの置き場所を変えるとか、無意識に固定化されていた冷蔵庫内のモノの位置を変えるとか。そうした些細な変化は、アクセントとなり、普段気が付かなかったことに気が付くことがある。
 ちょっとした変化だけど、日々の生活では案外大切なことでもあるな、などとコンサートの感触から少し逸脱しながらも、終演後にそんなことをつらつら考えていた。


2024/3/31 フィリアホール キアロスクーロ・カルテット

パーセル:4声のファンタジアより 第7,8,11番
ハイドン:弦楽四重奏曲 Hob.III:38「冗談」
シューベルト:弦楽四重奏曲 第13番 D804「ロザムンデ」
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久しぶりにダイアナ・クラールを聞く [ジャズ関係]

 朝から雨風強い平日の朝。読みかけのミステリー小説も残り100ページあまりとなり、今日は午前中で最後まで読み切ろうと取り掛かる。大変面白い展開で、このまま進めてゆくはずだったが、ふと窓の外の強い雨がなにか気になる。
 午前9時前、この日は予定もない。雨は昼頃までという予報。このまま本を読めたはずだが、何かそわそわするというのか、けだるさもあり、本はいったん中断して音楽を聞くことにした。特に何かというイメージはなかったが、先日来から聞こうと思ってたダイアナ・クラールをチョイス。

 その選択に関しては、先日図書館で借りた本のことがあった。読んでたのは、「エルヴィス・コステロ自伝(Unfaithful Music & Disappearing Ink)」という本。コステロが2015年に執筆期間10年かけた初の自伝で、なんと翻訳本は755ページもあり、本自体の重量もすごい。コステロの音楽は2000年前半までアルバムはほぼ聞いており、80年代初期の作品は思い入れもあるので、手に取ってみたが、読むのは難航した。話が時系列に進まず、時間軸が入り乱れ、家族の歴史的な部分や歌詞の言及も多く、なかなか手ごわい一冊で、飛ばし読みしながら読んだ。とはいえ、各種のエピソードは大変興味深く、驚きの内容もいくつかあり、また自分のイメージしていた部分と異なる感性も見え、参考になった。その自伝の中で、登場してきたのが2003年にコステロと結婚したダイアナ・クラール。

 読み終えて、そういえばダイアナ・クラールは久しく聞いてないなと思った。2000年前後のアルバムはいくつか聞いたが、彼是10年近くご無沙汰してたので、ちょうどいい機会だからこの午前中の雨の日、寝っ転がりながら聞いた。
 
 当時の印象は、心地よくリラックスできる作品だが、強い印象は希薄な感じだった。
 今回聞いた1999年のアルバムは、ダイアナの歌とピアノ、ギター、ドラム、ベースというフォーマットものとストリングスのアレンジを加えた作品が入ってる。軽いスゥイング感やゆったりとした流れ。窓の外は強風雨だが、音楽は緩く流れて気分も緩まってくる。以前聞いたときは、表面をなぞるように聞いてたのかもしれない。曲のくつろぎ感に自分を委ねきれなく、どこか生硬さが残ったまま接してたのだろうか。

 聞いてるうちに時間が間延びしてゆく。外の世界の雨風の強い時間が遠のいてゆく中、だんだん緩くなってゆく。とりわけいい塩梅に感じたのはマイケル・フランクスの「Popsicle Toes」。この曲、Mフランクスが1975年「The Art of Tea」に収録した曲で、このポップチューンをなんともジャズっぽく、軽やかに仕立てる。この曲の中間部におけるラッセル・マローンのギターもいい。

 結局、何もしないまま、アルバム全曲1時間ほど聞いてしまった。
 聞き終えてヘッドフォンをとると、相変わらずの強風と雨。さて、と起き上がり、コーヒーが飲みたくなった。いつもは午前中のコーヒーは朝の一杯で済ませてるが、この日は、もう一杯淹れることにした。そんな午前中だった。

CD:When I Look in Your Eyes/ Diana Krall (1999,Verve)
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シューマン:交響曲第3番/日本フィル [コンサート(オーケストラ)]

 前回の公演が印象的だったのでブログに書いたが、今回はそれ以来となる来日。4年ぶり3度目となるリープライヒの日本フィルとの共演を昨日聞いてきた。

https://presto-largo-roadto.blog.ss-blog.jp/2019-03-17
https://presto-largo-roadto.blog.ss-blog.jp/2019-12-08

 前2回もプログラミングが多彩だったが、今回も多様で、前半の三善晃、シマノフスキの曲は初めて聞く曲となった。

 前半2曲はなかなか複雑で、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲は25分程度の曲ながら単一楽章という独特さ。メロディーが見えにくく掴みどころが難しかったが、中盤以降少し寄り添えた感じもあった。

 後半はシューマン交響曲。しかしこの曲のみならず、シューマンの交響曲はなかなか聞くのが難しい。分かりにくさではなく、どこか上滑りしてゆく感じがある。集中して聞こうと構えてみるものの、音が身体をかわしてすり抜けてゆく、そんな感じがこれまで何度かあった。

 そんな中、休憩中プログラム読んでたら、ライン川沿岸をよく散歩したり、ケルン大聖堂の荘厳さに感動したこと、ケルンの旅の印象などが反映されてること、作品モデルにベートーヴェンの交響曲6番があったのでは、という箇所を読んでると、こういうイメージとともに聞けばいいかもと、感じた。
 冒頭から川沿いを散歩するイメージを作りながら、聞いてみる。第2楽章~3楽章の緩徐楽章の穏やかな流れはナチュラルに入ってくる。そして全体の中でこの第4楽章だけ雰囲気が違うのが、ここがケルン大聖堂の荘厳さの印象から作曲された重厚な楽章となってることが、イメージとして事前に入ってると違和感はない。リープライヒの音はゆったりと広がりを作り上げ、生き生きとした曲の感覚を扱いながら最後まで進んでいった気がした。
 事前にイメージや曲の背景を持って入ったこともあり、これまで遭遇したような上滑り的な感覚の再現は、この日出てこなかった。

 作曲家や背景のことを知らないでも真正面から音楽だけに対峙するスタンスは重要と思うが、時には背景を丹念に調べることで、豊かに聞けることもあるだろう。この日の自分自身も前半の難解な曲にどうもフィットしてなく、適度に緩い気分が存在してたのだろうが、シューマン交響曲を今回そうした緩い感覚とともにうまく聞けたようだ。

 さて、日本フィル2024/2025年シーズン定期演奏会の日程発表されたので見てみたが、来年もまたリープライヒの指揮が入ってる。プログラムをみると、全4曲中知らない曲が3つ・・・またまた多彩なプログラム、非常に楽しみである。

指揮:アレクサンダー・リープライヒ/ 日本フィルハーモニー交響楽団
2024/3/23日本フィル定期演奏会 サントリーホール
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