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映画 ボブ・マーリー:ONE LOVE [展覧会・写真・絵画など]

 ボブ・マーリーの映画「ONE LOVE」を見て思い出したのは、大学入学後のある午後の光景だった。

 ボブ・マーリーの音楽は高校生のころに体験済だった。10代後半に、70年代の名盤を探して聞いて中、ボブ・マーリーのレコードも買ったのだった。そのアルバムは、1975年発表された「ライヴ!」。解説ではレゲエ音楽という言葉があったが、そうしたレゲエ音楽という意識はあまりなかった。リズムが明確で強く、印象的にはロックよりのサウンド要素も強く感じられたのだろう。

 ずいぶん繰り返し聞いた記憶があり、有名な「ノー・ウーマン、ノー・クライ」「アイ・ショット・ザ・シェリフ」はもちろんだが 鮮烈に残ってるのは冒頭の「トレンチタウン・ロック」。最初の入りの部分から違和感なくこのリズムになじんでゆく。身体は緩いテンポに同期してゆき、アルバム全体もこのリズムで進行し、いつのまにか気分はゆるゆると高揚してしまう。

 やがて大学に入り、寮生活をスタートさせた、とある午後の時間が今でも記憶に刻み込まれている。入学当初はマメに授業を出席していたが、徐々に退屈に感じられ、自主休講も時々発生していたそんなある晴れた午後。突然休講になったのか、講義聞くのが面倒だったのか、はたまた二日酔いのせいにしてたのか、それともさしたる理由などなかったのか、定かでなないが、ともかくその日大学に向かうことなく午後部屋で寝そべって過ごしてた。そんな天気のいい午後の時間、突然下の階から音楽が聞こえてきた。

 え、これボブ・マーリーではないか。しかもあのライブ盤。高校時代に既に聞いてたとはいえ、同世代ではこういう話題ができる人は周囲にいなかったので、この音楽知っている人がいるのだと驚いた。当時の寮は民家も近くになく、のどかな場所にあったし、よく窓開けて過ごしてたのだが、この時の情景は残っている。講義に出席せず階下から聞こえてくるボブ・マーリーを聞きながら、まったりとしながらくつろいだ気分になっていた、その時間風景。

 それから会社に勤め、やがて10年以上過ぎた頃、ボブ・マーリーの他のスタジオ録音を何枚か買って聞いてみた。が、結局のところ、やはりこのライブ盤が一番ピンとくる。

 近年全く聞くこともなかったのだが、一昨日映画館でボブ・マーリーを見聞きしながら、自分はこの人の音楽背景全然知らなかったこと改めて気が付いた。政治闘争の背景や暗殺未遂事件からロンドンに向かい、そこで1977年「エクソダス」というアルバムを作ったことなど。そして「トレンチタウン・ロック」のトレンチタウンというのが、ジャマイカでの育った場所ということなど。

 帰ってから、久しぶりに「トレンチタウン・ロック」聞いてみた。30年くらい聞いてなかった気がするが、ちょっと聞くと一気に記憶は戻ってゆく。聞き終わってもこの曲が頭の中で再生され、ループしながらまるでエンドレスに反復されるように流れてゆく。あまり意識しなかったけど何度も聞いた曲だったな、と改めて思った。

映画:Bob Marley: One Love 2024年製作

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マーラー:大地の歌/ 東京交響楽団 [コンサート(オーケストラ)]

 2日連続でマーラー演奏会。金曜日は交響曲9番、昨日は大地の歌、といういずれも60分超えの重めのメニューとなった。

 しかも昨日の公演曲は前半2曲は初めて聞く作品(武満徹、ベルク)、そして後半マーラーというヘビーさを感じさせるラインナップだった。
 この日はどうも気分的に軽めの曲を求めてたこともあったのか、「大地の歌」の酒を飲み酔ってゆく曲あたりは、その日の気分とマッチした。いままであまり感じなかったが、とりわけ奇数曲におけるテノールの歌声が曲や歌詞と親和性が高く感じられた。

 第1~5曲までは全般的に楽観的で、酔った感じの気分の中で聞けるのだが、最後の30分近い第6曲は違ってくる。第1~5曲までは、内容は異なるが交響曲第4番あたりの明るい雰囲気にも近い部分があるのか、一方第6曲は交響曲第9番の世界観に近いような感じがある。この差異は曲調においても結構大きな隔たりはあるが、第1曲目の歌詞で人生の無常さが言及されており、酒の酔いや若さや孤独感といった諸相を経ながら、告別に至る、ひとつの人生のサイクルとして聞いてゆくと、最後に完結した感じも残る気がした。また、第6曲の中盤あたりからソプラノの抑制した中の感情がじわじわにじみ出てきて、このあたりは印象深かった。

 8年ぶりに聞いたこともあるが、酔いの楽しみ、寂寥感、そういった感情の同居する中で聞くと、以前とは感触が少し変わった気がした。

指揮:ジョナサン・ノット/ 東京交響楽団
メゾソプラノ:ドロティア・ラング テノール:ベンヤミン・ブルンス

2024/5/11 ミューザ川崎シンフォニーホール
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ポール・オースター「ムーン・パレス」 [ポール・オースターの本]

 オースターの作品では、割と読み易い作品に該当すると思ってきた。ネット検索とか書評を読むと、自伝的、ルーツ探し、青春小説などの言葉が出てきて、また自分で読んだ過去2度の読書でも読みやすかった記憶もあった。しかし、今回再読してみると、そうとうは思えない感触が残った。
 おそらく、ここ数年のオースター作品を読み込んできたことによる蓄積部分、そして前回から20年以上経過していることも影響したのだろうが、今回の3度目に読むと過去の印象とは異なるものを感じた。

 確かに、主人公が1960年代後半の大学生という設定、また著者自身が卒業したコロンビア大学の学生という設定にも自伝的要素が重なる部分があり、前半はフォッグの学生時代のすさまじい貧困生活と転落、救済という部分が全面に出てくる。

 しかし中盤以降は老人エフィング、老人の息子ソロモン・バーバーの人生が入り込んでゆく。前半はフォッグが中心設定になってるが、中盤以降からフォッグは物語の聞き手としての位置にシフトしてゆく。偶然に関与した人物との接点を通じ、そこで語られる物語から派生した円環の中にいつの間にか取り込まれ、やがて気が付くと深く関与せざるを得ない状況に入ってゆく。

 エフィングという老人の破天荒で予測不能な人物に翻弄されながら、見えない糸がストーリーを牽引してゆく。老人の屋敷で住み込みながら書物の朗読するという風変わりなアルバイトをしながら、長大な老人の波乱万丈な人生が語られてゆく。エフィングからの奇異な指示、彼の奇抜な行動や習慣を目の当たりにしながら、話は現在を飛び越え、過去の時間に向かってゆく。
 これは本当の話なのか。しかもこの物語の展開部分というより、中核まで規模を拡大し、実際にこの小説の半分近く(およそ200ページ弱を費やしてる)相当の記述が費やされている。さらに途中で時間軸は1910年代までさかのぼり、西部への旅を経て洞穴で飢餓や空腹の危機的な状況を経てゆくが、これは前半のフォッグの金銭がなくなった窮乏状況に重なるのだろう。

 更にエフィングの死から、フォッグは息子のソロモン・バーバーと面会することになり、そこから驚くべき事実を知ってゆく。このバーバーの語りの中には、彼の書いた架空の小説が挿入されているが、これが結構な長さとなっており、途中で一体何の本を読んでるのか見失いそうになる。この構造はその後のオースター小説に何度か出てくる、いわゆる、物語の中に別の物語が入ってくる構造が本格的に登場した最初の作品かもしれない。

 そしてすべてがうまくゆきそうだった時間が崩壊へと向かう中、バーバーの死から残された無形の未解決の接点を足がかりに、洞窟を探す旅へとフォッグが動いてゆく。一体、エフィングが語った洞窟は途方もないでっち上げだったのか、それとも真実だったのか、それを探しに動きだす。何かに突き動されてるような無窮動の動きを経ながら、やがてたどり着く場所へと導かれる、そこに何か希望が感じられる。

 全体を通じ、月がいろいろな場面で上方から照らし出され、見えない糸のようなものが、個別の関係しなかった人をつなぎ合わせてゆくようだ。月面着陸、中華料理店(ムーン・パレス)、叔父の楽団名(ムーン・メン)、様々な月のイメージを中心点に添えながら、人の抱える深い暗闇とそれらを照らす月明かりが隣り合わせに感じられてくる。
  
 なお、ラストの方でフォッグとバーバーの何気ない会話があり、興味深い次作への伏線のような箇所があったので、以下追記しておきたい。
 バーバーはクープランは退屈だが、フォッグはクープランの「奇妙な障壁」は何度聞いても飽きないという部分がある。些末なエピソードのようだが、この曲は翌年発表された「偶然の音楽」の中でも引用されている曲である。


ムーン・パレス (Moon Palace 1989)柴田元幸訳 新潮社
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ポール・オースター死去のニュースについて [ポール・オースターの本]

 昨日、ポール・オースターが4/30に亡くなったというニュースを知った。77歳だった。

 昨年の3月頃にがんで闘病中というニュースがあったので、いつかこういう時が来るかもしれないとは思っていたが、ついに来てしまった。報道を知ってから、もう作品は執筆されないという事実、そしてこれまでの自分に大きく影響を与えてきたこの作家のことを、ずっと振り返っていた。
 
 このブログでオースター作品を取り上げ始めたのは10年以上も前のことだった。

 https://presto-largo-roadto.blog.ss-blog.jp/2013-07-21

 今回改めて自分の書いた文書を読み直してみたが、最初に書いた2013年当時の文書におけるオースター作品へのスタンスや感覚は今でも継続していると感じた。変わらない思いが続いているのだと。その文書の中で、なぜ自分はオースターの小説に寄せられるのかという説明を「言葉の質感の親和性」という表現で説明してるのだが、この感覚はオースターの作品に触れるたびに現在も響き続けおり、たぶんそれはこの後も続くのだろう。

 そのことを体感したのは、もう今から30年近く前のことになる。

 最初にオースターの本を読んだのは20代前半の頃だったが、大きな転機となったのは仕事の長期出張でシアトルに滞在していたときに読んだことだった。ある休日にふと書店に入り、広い店内を歩いてると、バーゲンで売られているコーナーがあり、その中に「The Music of Chance /Paul Auster」というタイトルが目に留まる。この作家本は読んだことがあったので、手に取ってめくっていると、英文にも関わらず、なぜか読めるような気がしたので、そのままレジの前に持っていった。

 しかし現実は甘くなかった。英語の原書はなかなか読み進めなく、話の方向性もつかみきれない。辞書引きながら前進を試みたものの、途中で諦めムードが漂い始め、そうこうするうちに帰国となった。結局、3分の1くらいしか読まなかったが、荷物になるからとその本は現地で処分してしまった。

 それから数ヵ月後、再び出張が入り、とある休日、古本屋を見つけた。その後何度かその店に足を運んだある日、古本の背表紙を眺めていたら、「Paul Auster」の本が目に留まった。前回途中で投げ出してしまったことを悔やんでいたこともあって、もう一度挑戦してみようと思った。いくつかの作品から偶然選んだのは、「Leviathan」という作品だった。今度こそはと思ったがまたしても途中までしか読めなかった。しかしこの時は、そのまま持ち帰り、帰国後に再開して読んでいった。

 序盤は原書を読むのがしんどく、数行ごとに辞書を引いていたのだが、いつの間にか、辞書を使う回数が減っていった。どのくらい時間をかけたのかわからないが、とにかく最後のページまでたどり着いた。最後に読みきったとき、達成感もさることながら、この作家の用いる言葉に接近できた感覚があった。自身の英語読解力の不十さ故、細部の内容がわからなかった箇所も多かったが、完全な意味を理解すること以上に、この作家の放つ言葉の求心力に引き付けられた。

 独特な単語の組み合わせが放つユニークで鮮烈な光沢。
 目まぐるしく変容する世界を包括的に括りこむ表現。
 人生の機微の断面をすっと切るように照射する文書。
 そして小説のリズムやテンポ感、それらの流れをくみ取り、同期しながら流れに乗ったと感じたとき、なんという豊潤な時間がそこに生じるのだろうか。そんなことがオースター作品を通して何度もあった。どれだけ他の作家の小説を読んでも容易には見いだせなかった「言葉の質感の親和性」といったものを初めて、強烈に感じたのがオースター作品だった。そしてその感覚が今でもずっとあるから、こうしてブログで作品について言及することができるのだろう。

 これまでこのブログで取り上げたのは12作品あり、今後もまだ書いてない作品は継続して取り上げてゆきたい。小説以外にも、エッセイ、自叙伝、詩集、編集・編纂、映画などを含めるとその作品量は相当な数になるが、コンプリートすることはないにせよ、主要な作品は自分のライフワークと思い、今後書いておきたい。

 その次回にあたる13作品目はオースターの「ムーンパレス」を予定。
 実は、「ムーンパレス」は先月末に読了して、感想文書もすでにほぼ書きあがっており、あとはいくつかの細部を確認するだけの状態だった。今回のニュースがあったので先送りしたので、次回掲載する予定。
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