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ポール・オースター死去のニュースについて [ポール・オースターの本]

 昨日、ポール・オースターが4/30に亡くなったというニュースを知った。77歳だった。

 昨年の3月頃にがんで闘病中というニュースがあったので、いつかこういう時が来るかもしれないとは思っていたが、ついに来てしまった。報道を知ってから、もう作品は執筆されないという事実、そしてこれまでの自分に大きく影響を与えてきたこの作家のことを、ずっと振り返っていた。
 
 このブログでオースター作品を取り上げ始めたのは10年以上も前のことだった。

 https://presto-largo-roadto.blog.ss-blog.jp/2013-07-21

 今回改めて自分の書いた文書を読み直してみたが、最初に書いた2013年当時の文書におけるオースター作品へのスタンスや感覚は今でも継続していると感じた。変わらない思いが続いているのだと。その文書の中で、なぜ自分はオースターの小説に寄せられるのかという説明を「言葉の質感の親和性」という表現で説明してるのだが、この感覚はオースターの作品に触れるたびに現在も響き続けおり、たぶんそれはこの後も続くのだろう。

 そのことを体感したのは、もう今から30年近く前のことになる。

 最初にオースターの本を読んだのは20代前半の頃だったが、大きな転機となったのは仕事の長期出張でシアトルに滞在していたときに読んだことだった。ある休日にふと書店に入り、広い店内を歩いてると、バーゲンで売られているコーナーがあり、その中に「The Music of Chance /Paul Auster」というタイトルが目に留まる。この作家本は読んだことがあったので、手に取ってめくっていると、英文にも関わらず、なぜか読めるような気がしたので、そのままレジの前に持っていった。

 しかし現実は甘くなかった。英語の原書はなかなか読み進めなく、話の方向性もつかみきれない。辞書引きながら前進を試みたものの、途中で諦めムードが漂い始め、そうこうするうちに帰国となった。結局、3分の1くらいしか読まなかったが、荷物になるからとその本は現地で処分してしまった。

 それから数ヵ月後、再び出張が入り、とある休日、古本屋を見つけた。その後何度かその店に足を運んだある日、古本の背表紙を眺めていたら、「Paul Auster」の本が目に留まった。前回途中で投げ出してしまったことを悔やんでいたこともあって、もう一度挑戦してみようと思った。いくつかの作品から偶然選んだのは、「Leviathan」という作品だった。今度こそはと思ったがまたしても途中までしか読めなかった。しかしこの時は、そのまま持ち帰り、帰国後に再開して読んでいった。

 序盤は原書を読むのがしんどく、数行ごとに辞書を引いていたのだが、いつの間にか、辞書を使う回数が減っていった。どのくらい時間をかけたのかわからないが、とにかく最後のページまでたどり着いた。最後に読みきったとき、達成感もさることながら、この作家の用いる言葉に接近できた感覚があった。自身の英語読解力の不十さ故、細部の内容がわからなかった箇所も多かったが、完全な意味を理解すること以上に、この作家の放つ言葉の求心力に引き付けられた。

 独特な単語の組み合わせが放つユニークで鮮烈な光沢。
 目まぐるしく変容する世界を包括的に括りこむ表現。
 人生の機微の断面をすっと切るように照射する文書。
 そして小説のリズムやテンポ感、それらの流れをくみ取り、同期しながら流れに乗ったと感じたとき、なんという豊潤な時間がそこに生じるのだろうか。そんなことがオースター作品を通して何度もあった。どれだけ他の作家の小説を読んでも容易には見いだせなかった「言葉の質感の親和性」といったものを初めて、強烈に感じたのがオースター作品だった。そしてその感覚が今でもずっとあるから、こうしてブログで作品について言及することができるのだろう。

 これまでこのブログで取り上げたのは12作品あり、今後もまだ書いてない作品は継続して取り上げてゆきたい。小説以外にも、エッセイ、自叙伝、詩集、編集・編纂、映画などを含めるとその作品量は相当な数になるが、コンプリートすることはないにせよ、主要な作品は自分のライフワークと思い、今後書いておきたい。

 その次回にあたる13作品目はオースターの「ムーンパレス」を予定。
 実は、「ムーンパレス」は先月末に読了して、感想文書もすでにほぼ書きあがっており、あとはいくつかの細部を確認するだけの状態だった。今回のニュースがあったので先送りしたので、次回掲載する予定。
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