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シューベルト弦楽四重奏曲第15番 D887 [DVD・テレビ・ラジオ]

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 シューベルトの弦楽四重奏曲、といえば、やはり第14番「死と乙女」の演奏機会が非常に多いようである。実際、弦楽四重奏団のプログラムでも頻繁にみかけるし、また、過去の聴きに行ったコンサートでも何度か取り上げられている。試しには、と思い、自分の過去の聴きに行ったコンサートを調べてみると、なんと既に6回も聴いていたことが判明。また同じシューベルトでは、第13番「ロザムンデ」も数回あった。
 ところが、シューベルト弦楽四重奏曲最後の作品である、次の第15番ト長調になると、コンサートでは一度も聴いたことがない。めぐり合わせの問題かな、とも思うが、なぜか機会に遭遇していないため、今までCDを聴きながら、機会を待ち続けている、といった状況である。

 しかしなぜ、これほどに取り扱いの差があるのだろうか。確かに、第14番「死と乙女」は印象的な旋律と劇的な展開が、強い刻印を残してゆく。ところが第15番のほうといえば、どうも印象がはっきりしない。CDで何度か聴いてみたが、部分的には印象は残ったものの、とにかく長く、全体感がちょっと見えにくい。やはり、明確な輪郭は第13、14番のほうにあるようで、そうした違いが演奏機会にも反映しているものなのだろうか。
 
 そんな中、テレビ放映で、ハーゲン弦楽四重奏団の演奏で、シューベルトの第15番が取り上げられた。コンサートというわけにはゆかなかったが、これはせっかくのチャンス。
 演奏の前の冒頭に、ハーゲン弦楽四重奏団のメンバーのインタビューがあった。この内容が非常に印象的で、彼らのシューベルトの第15番に対する想いが語られていた。最晩年のシューベルトが作曲した作品の奥深さや崇高さ。やや第13番や,第14番に比して、人気は劣るかもしれないが、作品はシューベルト晩年の傑作であるということ。演奏前に、演奏者の解釈や思い入れの度合いを聞くことで、作品へぐっと近づけるようだった。そうしたインタビューに続いて演奏が始まっていった。

 非常に長い曲で50分弱あったが、全く間延びすることなく、ピンと張り詰めた空気の中、一音一音が明瞭に、意思をもって伝わってくる。

 第1楽章から、内に向かって放たれたかのような、どこか不安を抱えた気分が、楽観的な風景へと流れてはゆかない。秘めた心の強い情感が、切れのある弦楽器の表現で吐露されてゆくかのよう。灰色の空の下、容赦なく吹き付けてくる風に晒され、身体は次第に冷え切ってゆく。そんな身体に抗うかのように、うごめく心の告白は、まるで炎となって吹き上がるかのよう。
 第2楽章はなんという激しい感情の叫びなのだろうか。凍りついた心の語る声は、せまりくるもの激しい感情的な反応となるが、そこには諦念ではなく、むしろ何かに対する絶望的かもしれないが、強い抵抗を感じさせる。重く、暗く沈み込んだ中、しかし抑えきれない心は隠し切れなく、時にまた、何か回顧的な瞬間をも垣間見せる。
 第3楽章は少し軽やかさをみせるが、トーンは抜けるように明るいということはない。そして第4楽章。前半の重い流れを受け止めて、音楽は流れ出してゆくが、激しさはそのまま引き継がれてゆく。様々な感情や想いを巻き込んで、音楽は到達点へと向かって走り出す。感情の揺れを通過し、大きな渦となって、フィナーレへとなだれ込んでゆく。

 ハーゲン弦楽四重奏団の各個人の中で、十分に内面化された音楽が、濃密な空気の中で重なり合い、そして見事に一つの音楽として一体化されてゆく。今まで、よく捉え切れなかった音楽が、ぐっと手元にやってきて、自分の中に落とし込んでくれたような気がした。

 聴いた後、作品解説などの資料に目を通してみると、この曲の執拗な繰り返し、反復性について、言及されていた。そういわれれば、確かにその通りだ、と思ったものの、しかし、聴いている間はほとんど意識しなかった。通常は何度も反復があれば、気がつくのに、この演奏は、そうした繰り返しが、本当の意味でのフレーズの再現の連続だったと思う。必要から生じてきた、音の反復だったからこそ、退屈さとは無縁の演奏になったのだろう。
 
2010/11/12 NHKテレビ芸術劇場 放映にて「ハーゲン弦楽四重奏団演奏会(2010/10)」

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